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パンチライン、引用、そしてピントについて
from 2022/08
パンチライン、引用、そして言葉についての断片集



> そのカロリーの高さとは情報量の多さを指しているのではなく、圧縮から解凍するためのデコードに労力を使うからではないかと思う。
> そして、そのデコードの際に失われた情報量を、読む人がそれぞれ補完している。だから、パンチラインは、あなたの言葉だと思うんです

> 引用に次ぐ引用によって、べつべつに書かれて読まれた文章がつながって、点がやがて面になっていく
> 戦争はある瞬間から突然はじまるようなものではなく、もうゆっくりはじまっているのかもしれなくて
> 僕たちは、戦争を知らなくていい
> 知らない「戦争」ではなく知っている「平和」を根拠にするべきなのではないか


> 社会通念が示唆するように、良好なコミュニケーションは冷静で、論理的で、合理的です。感情は邪魔をするだけだと言われています。しかし、これが逆だとどうなるでしょうか?それらの感情的な倍音が私たちがお互いに送信している主なメッセージであり、その論理的な言語がすべて飾りにすぎないとしたらどうでしょうか?

まったく普通の平易な緩やかな言葉の方が、鋭く世界を切り抜いてるんじゃないか
> おそらくどこの誰よりもたくさんの、自分ではないの誰かの、見ず知らずの言葉を引用してきているんだけど、 https://twitter.com/taizooo/status/1559062207438016512
> いまはエッジの立った切れ味鋭いなにかより、まったく普通の平易な緩やかな言葉の方が、鋭く世界を切り抜いてるんじゃないか、なんて思ったり思わなかったり https://twitter.com/taizooo/status/1559062786847584256
> モートン・フェルドマンが言ったみたいに https://twitter.com/taizooo/status/1559063691013681152

みなさんがラディカルだと思う人たちは、ほんとうは保守的かもしれません。保守的だと思う人たちは、ほんとうはラディカルなのかもしれません
> 「みなさんがラディカルだと思う人たちは、ほんとうは保守的かもしれません。保守的だと思う人たちは、ほんとうはラディカルなのかもしれません」。そしてシベリウスの第五番をハミングし始めた。 https://twitter.com/taizooo/status/1455867815936753667

カロリーが高い」という比喩がなにを指すのか
それについては無自覚に使っていた
そもそもこの「カロリーが高い」という言葉自体が自分の言葉ではない
> 「キミはわたしの文章のカロリーの高いところばかり引用していくね」 https://copyanddestroy.hatenablog.com/entry/2021/02/10/182623
だれかの言葉
そのひとにとっては、肯定というよりは否定だったのかもしれない
さて、これについては、
shikakun の写真についての文章になにかヒントがある気がする
写真
ピント
輪郭
ということで、ディギンする(した)

> 遠くにあるものを近くへ引き寄せて、言葉のピントを外していく。そうやって、誰かとつながるための余白を空けておくのだ。

> 花の写真を撮るのは楽しい。自然によって生成された3次元のグラフィックを題材に、画角と焦点距離というレンズの都合を持ち込んだうえで、新しい見え方を発見していく過程が楽しい。決して真実を写すのが写真なのではなく、光画というか、光を画材にして描くのが写真なんだな〜 と改めて思う。目の前にあるものに対して考え続けることによって、頭のなかの通信ポートが一時的に埋まって余計なことを考えなくてすむのも、写真を撮るのが楽しいと感じる理由なのかもしれない

> F1.4に絞り値を開放して、ほかの値はカメラに任せて撮ってみた。そうすると、だいたいシャッタースピードが1/4000秒ぐらいまで速くなって、日差しが当たっている箇所は露出オーバーで白く飛ぶ。1975年に作られたらしいこのレンズは、ピントが当たっていないところが油彩画で描いたように輪郭がなくなり、風景へ溶け込んでいく。かたちが溶けていく。だから、露出オーバーかつピントが外れると、光が当たることでかたちが溶けていくように見える。

> 公園の植物の写真を撮りながら、写真ってクリエイティブコーディングで生成されたグラフィックに近いよなと思っている。乱数をコンピューターが計算しているのか、自然がジェネレートしているのかという違いであって。
> 結局のところ計算のプロセスは複雑で、シャッターを切ってみないとよくわからない。
> 出力された結果を見てから、入力の値を調整していく。コントロールできないものに対して、徐々に軌道を修正しながらコントロールしようとする。それでも、コントロールしきれない。
> そんな存在を通して、液晶ディスプレイに映し出された、自分の眼とは異なって見える目の前の風景を見る。僕たちは相対的にしか世界を見ることができない。コントロールできるものとコントロールできないもののあいだを行ったり来たりしながら、世界の像を補正していく。見ることの内省。

> しかし、2004年かあ。15歳差じゃん… と思いながら観た展示は、すごくよかった。ピントが合っていない写真を見ながら絵を描いたり、過去に描いた絵をピントをぼかして写真を撮ったりしている作品があって、かっこいい。ミュージアムショップで《不法に占拠された家》と《花》というタイトルの絵のポストカードを買った。

> マニュアルフォーカスで写真を撮ることは被写体へピントを合わせるゲームのように思えていたけど、花ではなく枝や葉に合わせてみると、手前や奥にある花は輪郭が失われて、そうやって光に近づいたほうが花らしく見えるようにも思える。
> 花とはいったいなにか、定義が更新されるというか。なんかこの考え方で、いろんなものを撮ってみたらおもしろそう。


> これは視力が良い悪いという物理的な話だけではなくて、目で見た何かを脳でどのように認識してるかという話でもあります。何かを見ていても、実は見ていないということはよくあって、例えば僕が何の資料も見ずに描いた背景の絵は、僕が認識しているものしか描かれていないので、すごくシンプルです。
> そこにはおおざっぱな陰影と、目立つ物体しかありません。例えば壁にパイプが走っていても、それがどこからどこに繋がっているかなどの意味はなく、ただパイプがあるだけです(僕がその程度の認識だから)。本棚があっても、何が置かれているかの認識はなく、ただ、本があるんだなという絵があります。
> ただし、実物の写真をベースにした絵を描くときには、そこが変わります。僕自身が認識していないディテールが写真には存在し、描きながら、僕が今まで何を見ていなかったかが分かってきます。「絵を描く」ということは、「対象を理解する」ことに通じています。絵を描くことで、自分は今まで色んなものを実はちゃんと見ていなかったことに気づきます。
> 人は自分を取り巻く世界の一部しか見ていません。しかし、興味を持った瞬間に今まで見えていなかったそれらが、一気に精細に目の前に立ち上がってきます。