『実力も運のうち 能力主義は正義か?』
出版社::早川書房 (2021/4/14)
原題:『The Tyranny of Merit: What’s Become of the Common Good?』
Tyranny:専制政治,横暴
Merit:値する,優れた価値、功績、
Meritism:実力主義
Common Good:共通善
目次
> 第2章 「偉大なのは善良だから」―能力の道徳の簡単な歴史
> 第4章 学歴偏重主義―何より受け入れがたい偏見
動画
共通善はいかに可能か?
能力主義(メリクトラシー)とは何か?
マイケル・ヤング(イギリスの社会学者)『The Rise of the Meritocracy』(1958)
誰もが真に平等な機会(平等に競争に参加できる機会)を手にしたら何が起こるか?
勝者は驕りを、敗者は屈辱をより多く獲得するだろう
とはいえ、能力に基づいて人を雇うことは悪いことではない。
歯医者は腕の良い歯医者の方が良い
ではなぜ、能力主義が問題なのか
能力の重要性
「社会は、経済的報酬や責任ある地位を能力に従って割り当てるべきだという考え方」
能力に報いる社会
上昇志向
自由概念
これらが人を鼓舞する(共産主義の逆)
しかし、ダークサイドがある
自己責任の大きさ
自己啓発の闇でもある
自助努力と運の相性の悪さ
摂理主義
西洋文化の道徳的直観
「自然の出来事には何か理由がある」
ペラギウス(五世紀の修道士)による自由意志の導入とアウグスティヌスとの論争
ルターの批判→腐敗した教会権力の打倒→ピューリタン&宗教改革→ジャン・カルヴァン→『プロテスタンティムズの倫理と資本主義の精神』(マックス・ウェーバー)→能力主義的な労働倫理→禁欲と勤労→救済のしるし
>とはいえ、現世のそうした活動を選ばれた者のしるしと見なすことが、選ばれる原因と見なすことへすり替わってしまうことを拒むのは、不可能ではないにしても難しかった。
ポピュリズムの怒りへの誤解
グローバリズムに乗り遅れた人たちが、単に経済的不平等に怒っているのではない。
>能力の専制に虐げられていると感じる人びとにとって、問題は低迷する賃金だけではなく、社会的敬意の喪失でもあるのだ。
「人は自らに値するものを手にする」
大学入学の裏口と通用門と正門
「当人の能力によって入学が認められるべき」→その恩恵に与るに値する
現状の問題は、能力主義の不徹底(あるいは未浸透)なのか?
もっと平等にすれば、文句はなくなるのか?
そうではないだろうと、サンデルは主張する
正義にかなう社会を生み出すものについて考える一つの方法
自分が裕福な家庭で育つか貧しい家庭で育つ家庭かわからないとき、どんな社会を選ぶかを問う(無知のヴェール)
この場合は能力主義社会の方が正義にかなう
では、頂点に立つか、底辺に沈むのかが前もって分かっているとすると、貴族社会か能力社会かどちらを選ぶか
ハイエクとロールズ
>ここに、現代政治の不可解な特徴がある。原題の主要な公共哲学が能力主義的想定を拒否しているにもかかわらず、政治的レトリックや一般市民の態度が、経済的報酬は功績や手柄に一致する、あるいは一致すべきだという考え方から離れようとしないのはなぜだろうか? 哲学が世界と乖離しすぎているせいで、一般市民の考え方や行動様式と関わりを持てないだけのことだろうか? それとも、自由市場リベラリズムや福祉国家リベラリズムの何らかの特徴が、この二つの立場が公式には拒否している能力主義的な成功理解への道を開くのだろうか?
>道徳的にも心理的にも、功績と価値の区別は無視できるほど小さくなっている。これは、お金がほぼあらゆるものの尺度となる市場社会にとりわけ当てはまる。
>市場の需要に応えることは、何であれ、人びとがたまたま持っている欲求や願望を満たすという問題にすぎない。だが、こうした欲求を満たすことの倫理的意義は、その欲求の道徳的価値に左右される。欲求の価値の評価には、論争を呼ぶことは明らかな道徳的判断が含まれるが、こうした道徳的判断を経済分析によって下すことはできない。よって、才能の問題を脇に置いたとしても、人びとが消費者の好みに応えることで稼ぐお金は、功績や道徳的な手柄を反映しているという想定は誤りだ。その倫理的な意義はいかなる経済モデルも提供できない道徳的考慮に依存している。
ブレイキング・バッドの科学教師の二つの仕事
>消費者の需要を満たすことは、それ自体に価値があるわけではない。その価値は、一つ一つの事例ごとに、需要を満たすことでかなえられる目的の道徳的地位によって決まるのである。
>また、共通善に貢献し、それによって承認を勝ち取るのは、消費者としてではなく生産者としてのわれわれの役割においてのことだからだ。
消費者を中心にした場合
>共通善をあらゆる人の嗜好と関心の総計と定義づける
経済成長の最大化によって、共通善は達成される
最大多数の最大幸福
市民的概念を優先した場合
>共通善とは、たんに嗜好を蓄積することでも、消費者の幸福を最大化することでもない。自らの嗜好について批判的に考察すること──理想としては、嗜好を向上あるいは改善することであり、それによって価値ある充実した人生を送ろうとすることだ。
>市民的概念の視点からは、経済においてわれわれが演じる最も重要な役割は、消費者ではなく生産者としての役割だ。なぜなら、われわれは生産者として同胞の市民の必要を満たす財とサービスを供給する能力を培い、発揮して、社会的評価を得るからだ。
消費者的生産・推し
ヘーゲル「承認を求める闘い」
経済成長がすべてを解決するから、という価値観だけでなく、対立を回避できるから。
やわらかい消費
共通善に関する議論の回避→消費・経済的成長の最大化という原理
たとえば、贈与に気がつくこと
>市場主導の社会では、物質的成功を道徳的功績のしるしと解釈する誘惑につきまとわれる。それは、繰り返しあらがう必要がある誘惑だ。そのための一つの方法が、共通善への真に価値ある貢献とは何か、市場の裁定のどこが的外れなのかについて、慎重かつ民主的な考察を促す方法を論じ、規定することだ。
>だが、共通善に到達する唯一の手段が、われわれの政治共同体にふさわしい目的と目標をめぐる仲間の市民との熟議だとすれば、民主主義は共同生活の性格と無縁であるはずがない。完璧な平等が必要というわけではない。それでも、多様な職業や地位の市民が共通の空間や公共の場で出会うことは必要だ。なえなら、それが互いについて折り合いをつけ、差異を受容することを学ぶ方法だからだ。また、共通善を尊重することを知る方法でもある。
自分の成功は、道徳的に正当なもの
自力で入学したと、本当に言えるのか
競争によって失われるもの