9694_注文の多い料理店・序(6)路上詩人こうじ
通りかかった友人から、路上詩人こうじさんが来ていると聞き、私はすぐに訪ねました。こうじさんは私と少しだけ話すと、『すみません』とヘッドホンを耳にすると、どこかでお会いしたことがあるような、優しい石仏のようになりました。帰宅を急ぐ人たちは、私たちの脇を不思議そうに眺めながら、通り過ぎていくのですが、私にとっては、この作品の前を素通りできることの方が、不思議でした。
こうじさんと一緒にデッキ通路に座り込むと、まるで川の中に潜ったように、あたりが急に「静か」になりました。今日の記事は、私の文章は無用のようです。賢治『注文の多い料理店』序を、引用させていただきます...( 2018.04.22) >わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、
>桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
>またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、
>宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
>わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
>ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、
>十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、
>どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、
>なんのことだか、わけのわからないところもあるでしょうが、
>そんなところは、わたくしにもまた、わけがわからないのです。
>これらのちいさなものがたりの幾(いく)きれかが、
>おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、
こうじさんからの説明を聞き、私、思わず聞いたのです。
「こうじさん、何を感じて、この詩を書いたのですか?」
こうじさんは、答えてくれました。
『書かれている詩の半分は、大瀧さんから感じるもの、そして、』
『残り半分は、私自身の中にある言葉、その二つを合わせました』
もしかすると、流行りなのでしょうか。
『路上詩人』と検索すると、たくさんの作家さんが登場します。
ですが、
こうじさんの作品には、他の作家にはない『優しさ』を感じるのです。
こうじさんと一緒にデッキ通路に座り込み、目の高さをずっと低くした時、
それは、ようやく見ることができた、静かな『優しさ』です。
その『優しさ』は淡くて、私が急いでいたり、振り返らなくなったり、
目の高さが高くなってしまうと、すぐに見失ってしまいそうです。
インスタグラムで、『
k0u2i』を、検索してみて下さい。