隻手の声
>両手を打ち合わせると音がするが、片手にはどんな音があるのか
>「狗子仏性」の公案に取り組んだ白隠が、狗子より疑団が得られやすいとして、それに替わる公案として用いたものである。
>「両掌打って音声あり、隻手になんの声やある。隻手の声を拈提せよ」
>(「両手を打ち合わせると音がするが、片手にはどんな音があるのか。それを報告しなさい」という意味。「拈提」は、公案の解答を提出することをいう。)
>狗子仏性(くしぶっしょう)は、禅の代表的な公案のひとつ。
>あるとき弟子の一人の僧が趙州に、「犬にも仏性があるか、それともないか」と尋ねた。趙州は「無」と答えた
>禅宗の有名な公案。中国で南泉普願(七四八~八三四)の門弟たちが猫の仏性(仏の種)で論議していたとき、南泉は猫を斬って対立の根を絶つことを教えた。その夜、高弟趙州が来たので南泉がその話を問うと、趙州は草履を頭上にのせて出ていったので、南泉は「君がいたら猫は殺されずにすんだのに」といったとの話。
結論は「猫に仏性があるか?ないか?それは
誤った二項対立だ!」ってことだと思ってる
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その程度のことを言うために猫を殺すな!(余談)
その後の「草履を頭に乗せて出て行った」は「猫に仏性があるか?ないか?それは草履の右と左のようなもの」ということ
「対立は本質的に存在するのではなく人間が見出している、見方を変えれば消える」ということ
南泉が猫を殺したのは「猫という存在」を消すことで対立を消滅させてみせたわけ
この感覚に関しては
隻手の声の方が直接的でわかりやすいと思う
「猫に仏性があるか?ないか?それは両手を打ち鳴らしたときにどちらの手から音が鳴ったか問うようなものだ」