generated at
読書について


古典を読む

>つねに読書のために一定の短い時間をとって、その間は、比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品だけを熟読すべきである。

>良書を読むための条件は、悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。

>多数の読者がそのつどむさぼり読むものに、我遅れじとばかり、手を出さないことである。たとえば、読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版に増版を重ねるような政治的パンフレット、宗教宣伝用のパンフレット、小説、詩などに手を出さないことである。このような出版物の寿命は一年である。


多読批判
>読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。
読書ばかりをして自分で考えることをしないのは良くない

>ほとんどまる一日を多読に費やす勤勉な人間は、しだいに自分でものを考える力を失って行く。

>多読すればするほど、読まれたものは精神の中に、真の跡をとどめないのである。

>重要な書物はいかなるものでも、続けて二度読むべきである。それというのも、二度目になると、その事柄のつながりがより良く理解されるし、すでに結論を知っているので、重要な発端の部分も正しく理解されるからである。さらにまた、二度目には当然最初とは違った気分で読み、違った印象をうけるからである。つまり一つの対象を違った照明の中で見るような体験をするからである。

思索について
>思想家には多量の知識が材料として必要であり、そのため読書量も多量でなければならない。だがその精神ははなはだ強力で、そのすべてを消化し、同化して自分の思想体系に併合することができる。つまりその精神はたえず視界を拡大しながらも有機的な組織を失わない壮大な洞察力の支配下に、その材料をおくことができるのである。

intellitechでも紹介している

考える」は「アウトプットを焦ると劣化コピーになる」でいうところの「結合」に相当する概念





こっちもあるけど今僕の手元にあるのは光文社の方だった