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自分が正しいか分からない

「干渉する」とは何か?
例えば、今中学生が「N高に入るかどうか迷ってます、決めてください」と言ってきたしても、絶対決めない
「どちらがいいと思いますか?」にも答えない
僕は肌感としてはN高校を良いものだと感じているが、他人の高校生活を左右するほどの確信はない
これ、どんなに詳しくなってもやらない気がするな
自分が出た高校についてであっても「十分詳しい」と感じない
あ、そうか「選択肢Aと選択肢Bのどちらがよいか」という問いには両方を経験した人しか答えられないんだ

というわけで
>自分が正しいか分からない状態で、他人に干渉するというリスクを取るのが苦手説
これには共感している

しかし前半の「自信を持って情報発信をすることが苦手」には共感してない
このブロック、そもそも何を言ってるのか意味を理解するのに困難を感じた
リンク先の/blu3mo-public/「自信を持って発信できる人が得する社会」は苦手を読んで「自信を持って情報発信をすることが苦手」ということかなと解釈している

ということは、これは一つのページの中に異なる概念が混ざっているのではないか?
もしくは、西尾が「情報発信と干渉は別物」と考えていることによって異なる概念に見えている

なぜ僕は「自信を持って情報発信をすること」ができるのか
いや?自信を持って情報発信してるか?
自信というパラメータがそもそもないような…
僕は何かを発信するときに「これに自信があるか?」とか考えてない気がするな…
例えばあるコードを実行してあるエラーメッセージが出たとする
「このコードを実行したらこのエラーメッセージが出た」は観測事実
自信があるとかないとか関係ない
それが共有されない世界と共有された世界を比較して後者が良いと思うなら公開する
こういうコードの挙動に関することだと大体悩む余地などなく公開を選んでそう
このコードを書けばエラーを回避できる、って時
それが事実なら、やはり自信は関係ないな
最良の方法かどうかは知らない
他のユーザの環境でも有効かは知らない
それによって自分の問題が解決したなら「これで自分の問題は解決した」は事実
「こういう設計が良いのではないか」
これは明らかに確信を持ってないな、だから「アウトプットしたものは…に入るべきではないだろうか」という語尾になってる
これは結局、読者のリテラシーをどこまで信用するかの話だな
他人の記事で例えば「入るべきである」と断言してあったとしても、それが事実ではなく解釈なのは明らか
なのでそういう書き方をしてあっても「これは著者がそう思ったという表明だ」と僕なら解釈する
なので、その書き方も「『私はこう思った』という事実の表明」に帰着する
「こういう解釈もできるのではないか」
「『こういう解釈もできる』と僕が思った」という事実の共有だなぁ
つまり
Q: なぜ僕は「自信を持って情報発信をすること」ができるのか
この問いQには暗黙に「情報発信をするためには自信が必要である」という仮定Pがある
西尾の主観では、自信のないものでも情報発信してるので「Pはfalse」
でも他の人の視点を想像してみると「それは西尾が自信に満ち溢れてるからだろ」って意見がありそうだ
となると次は「自信とは何か?」が問いになるか

眠くなったので今日はここまでにしておこう

最初、正しさの定義の話になるかと思ってこのリンクを置いたが、今のところまだそこに帰着してない