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日記2022-01-31
ほぼ時系列の生ログ: 日記2022-01-31log
頭から読んで箇条書きで整理し始めたけど「いや、違う、Kozanebaだな」と思ったのでまずKozanebaでやる
やはり後ろの方がしっかりしてる傾向があるな


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タイトル「日記
夢の中で何か「わかった」という感覚があったが、消えてしまった。
しかしそれは確かにそこにあったので逃げてしまったとしてもまだ水面近くにいるはずであり、思いつくことを書き出していけばまた見つかるかもしれない

井戸端で日記を書いていた
このScrapboxに日記的ページがあまりなかった
なぜあまり書いてなかったのか
開発日記はあった
井戸端にも「Scrapbox Readerは関心のある人が多そうなのでこっちに書こう」という形で日記ページに書き始めた
その後、周りの人の日記の書き方の影響で日記に書くことのバリエーションが広がった
豆論文化したい気持ちがある?
ゲームプレイ日記もあった
これは特殊な条件(後述)

井戸端がなんでも書いて良い場とされていたとしてもこれは書かない、なぜか
他人が読む形にしない?
それなら公開のプロジェクトで書く必要もない
書かない必要もない、みてもいいから置かれている?
秘密にしたいようなことが含まれる可能性があるなら非公開の場で始めるべきであった
ないだろうと思い込んで公開の場で書き始めたが、それによって何かをサプレスしているかも知れない

騒がしい部屋では逃げてしまった魚を探ることができない
深く逃げてしまう
他人からの刺激によってトリガーされる思考が、先の思考の痕跡を覆い隠してしまう
物理的部屋に人や猫がいることですら邪魔なのでこれはトイレで書いている
起き上がってスマホをつかんでトイレに駆け込む感じ
ひと段落ついてきたのでもう出ても大丈夫

井戸端にいる時、あきらかに心のモードが違う
ゲーム日記をなぜか井戸端ではなくこちらに書いた
なぜか?

夢の中で見たもの


すべてが書き出され、それから構造化されるべき
なのに「場の空気」によって無意識に何が書き出されるかが変わっている

両方

昨日の社会的トリガー
半分日記的

Scrapboxの使い方
参考にされてる
しかし例として適切ではないのでは
人生の目的のボトムアップ構造化
初期の段階ではなんでも書くべき
人生や価値観に関わっている
「青臭い」「恥ずかしい」と感じて隠したくなるだろう
「Scrapboxの使い方」とは別に「考えを書き出して事後的に整理したり読み返したりするシステムの使い方」としては、まずプライベートで一人で日記をつけるのが良いのではないか

無自覚にそれをやってきた
howmの時代はWiki的システムに書いた日記が即座に他人に公開されることはなかった
これは単に、まだそれに適したものがなかった
いや、あったな、
Perlの日記CGI、ボットの入ってるチャットシステム、メーリングリストという同年代のコミュニケーションツール、などがあった

レバレッジリーディング

濃縮して書くところだけでなく、それを読み返すことにいみ

レビューツールkmkdk(噛み砕き)
クローズドベータの段階で自分でもイマイチだと思い始めて放棄されたサービス
「一次ソースがわからなければいけない」
そうではない
たどることができれば十分であって、むしろ出典の情報が強く残ってはいけない
→Incremental Readingも同様
井戸端ではこの方向性の原始的なアイデアが「アクティブ読書」という言葉で言及されていた


人生の目的
事後的につながる
点がつながる コネクティングドット


最近やってた断片的読み物の実験も、若干違和感がある
場の空気にあっていない感じ
これは「今の段階ではまだ馴染んでないけど、時間が経つと溶け込」むと思ってやられている
空気にあってない感じであることで、一気に300ページやることが妨げられている

ゲーム日記はなぜ書くのか
しかもすべてのゲームで書くわけではない
Autonoutsとか、書いててもおかしくないのにやってない
たまたま、友達と同時並列的に一つのゲームをプレイしていて、出たばかりのアーリーアクセスだったから経験を書いて共有するインセンティブがあったから書かれただけ

10年前の記事
「たくさんたべるうえのたん」とか、今だったら絶対書いてない
その情報に書く必要を感じないことによって無意識にフィルターされてる

「今だったらフィルター」
フィルターが変わってきている
「何に書く価値を感じるか」は「価値観」
これは事後的に価値観が形成されていくプロセスを振り返って観察しているのだ