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心の中のメーターのたとえ
こういうメーターがあって、上がったり下がったりしている。このメーターが心の中にあると考えてみよう。

何かを判断するときに、このメーターがプラスかマイナスかを見て決めるという趣旨の話がいくつかの分野でそれぞれの表現で行われている。

1: 暗黙知の概念を提唱したポランニーが著書「暗黙知の次元」で語っている。探しているものが何なのかわからないのに、なぜ探すことができるのか?それは「近づいている感覚」があるからだ、とした。

2: これを踏まえて西尾は著書「エンジニアの知的生産術」で「近づいている感覚」の裏返しの「これは違うな、近づいてないぞ」という感覚が「違和感」だ、と説明した。

3: 川喜田二郎は著書「発想法」で、理性と対置されるものとして「情念」という言葉を導入した。これはKJ法が「まだ言葉になっていないもの」を言葉にする手法なので、言葉や論理だけに頼るのではなく、まだ言葉になっていない感覚に注目する必要があるからだ。同様のことを「親近感を覚える」「関係ありそう」「しっくりくる」などの言葉で説明している。

3-2: 川喜田二郎はこうも言っている
> 人間には、理屈ではない、なにか嗅覚にも似た能力があり、この能力の方が理性よりも遙かに先行して、必要らしい情報を嗅ぎつける。あるいはこういうことかもしれない。人間に限らず多くの動物は、自分を取りまく全体状況を、全体として感じ取る能力がある。それは、分解して扱うなら視覚・時間感覚・嗅覚・触覚その他として個別にも扱える面があろう。しかも人間や他動物は、それらの認識能力を、単に並列的に個別に行使するだけでなく、また部分の総和以上の、分割できない総体としても感知する。そしてそれに対応して、状況というものはそもそも縫い目のない総体として存在するのである。
> そのように捉えられた全体としての状況と人間や動物の総体的認知能力との間に調和的な交渉があるときは、人間や動物はそれを格別意識せず、「正常」と受け取っている。ところがそこに不調和が生じたとき、彼らは「異常さ」を感じる。 そしてその原因となったらしいものに注意を集中する。これが、ここで私がのべた嗅覚にも似たものかもしれない。
川喜田二郎 「KJ法 渾沌をして語らしめる」 p.223


4: 片付けコンサルタントの近藤 麻理恵(こんまり)が使う「ときめき(Spark Joy)」の概念も関連が深い。使う目的が知的生産ではなく「捨てるかどうかの判断」なので一見無関係に見えるが、言語的な理由(例えば「高かった」「思い出の品」)ではなく、現時点の感情にフォーカスして判断せよ、という構図は同じ。

これを書いたきっかけ
正解がわからない」に関して、現時点では誰にも正解が何か分からないのだから「正解に近づいている感覚」に注目しながら探すしかない

Q: フェルトセンスもここに含まれますか?
含まれませんnishio
フェルトセンスを他のフェルトセンスと照らし合わせたときに「しっくりくる」「こない」という感覚がある、その感覚がメーターの上下にたとえられています
別の表現
メーターはプラスになったりマイナスになったりする一次元の値
フェルトセンスは、例えば三次元空間の中の煙や湯気や雲のような存在
実際には直接見ることができないような高次元空間にある
明確な境界をもたないことがしばしばある
これを一部切り取って名前をつけるのが「言語化」
だからまったく違うものです