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「Xである」と「Xでない」が両立する
2021-10-22

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2021-03-031
悪徳と悪の違いで起きていた現象
同じXという単語で言及されていたものが、実は入れ子になった2つの概念だった
それによって、狭いXを見ている人は「AはXではない」と考え、広いXを見ている人は「AはXである」と考える

これが関連してる: 関係の質問
かなり抽象度が高いけど。
>XとYは同じものですか?違うものですか?
>ニュートラルなように見えるが誤った二分法
>包含関係オーバーラップの可能性を除外してる
これがよりスペシフィック
近いけども今回の事例とイコールではない
これは一人の人の事例
これが本質的なのでは
そもそも意味を集合と捉えているのが、間違っているのでは。
人は単語の意味を脳内にある代表的事例とそれに対する類似度で認識していて
その類似度に適当な閾値を決めれば集合ができるが、閾値を明確に認識していない。
なので上の図のような「境界のぼやけた集合」になる
今回のような「Xという概念が入れ子の集合になってる」という現象は、単に閾値の違い
適性のある人同士で意味を比較することでやっと閾値の違いが可視化される
(2023-02-04)
意味は明確な境界を持った集合ではなく、ぼやけた境界を持ったぼやけた丸
これの延長線上に「体験過程と意味の創造」勉強会2#61fb7718aff09e00004a7667で説明した「意味のnon-numerical character」がある
意味はベクトルだが、それだけでは点に過ぎない
「AはXである」という演算が完全一致だけになる
そうではなく、脳内にあるいくつかの代表ベクトルとそれに対する類似度
この類似度に閾値を決めると集合になる
(2023-02-04) しかし人間は明確な閾値を持っておらず、なんとなくで境界を決めている
代表ベクトルが空間を取り合って境界ができるのは自己組織化マップっぽい
類似度を決めてすらいない
はっ、意味は集合として明確に定義されるのではなく類似度でつながったグループである、ってウィトゲンシュタインの家族的類似じゃん!
>ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインはその著書『哲学探究』のなかで、「ゲーム」(独: Spiel)という語をとりあげ、「ゲーム」と呼ばれている全ての外延(対象)を特徴づけるような共通の内包(意義)は存在せず、実際には「勝敗が定まること」や「娯楽性」など部分的に共通する特徴によって全体が緩くつながっているに過ぎないことを指摘し、これを家族的類似と名付けた。この考え方はプロトタイプ理論とともに、語の定義を必要十分条件で規定しようとする古典的なカテゴリー観へのアンチテーゼとなっている。
>人間が実際にもつカテゴリーは、必要十分条件によって規定される古典的カテゴリーではなく、典型事例とそれとの類似性によって特徴づけられるという考え方...たとえば「鳥」という語から想起されるのはカラスやスズメなどの空を飛ぶ小動物であり、ダチョウやペンギンなどは典型事例から外れている。