訴えないのに「訴えてやる」は脅迫罪になりうる
>『告訴の意思がなく、又その意思が不確定であるのに、ことさらに告訴すべきことを通知するのは、害悪の告知に他ならない』として、脅迫罪の成立を認めた判例(大審院 大正3年12月1日)
>「お前の不正を告発するぞ」と言った場合、真実の追究が目的ではなく、単に畏怖させる目的であれば脅迫罪は成立する(大判大正3年12月1日刑録20輯2303頁)。
>「人民政府ができた暁には人民裁判によって断頭台上に裁かれる。人民政府ができるのは近い将来である」と告げるのは、脅迫罪に当たらない
>(害悪が被告人自身または被告人の左右し得る他人を通じて可能ならしめられるものとして通告されたのではないため。広島高松支判昭和25年7月3日高刑3巻2号247頁)。
被告人の左右し得る他人を通じて可能ならしめられるのラインは?
「ウマ娘のエロを描いたら、馬主があなたを訴えるから描くのをやめなさい」は馬主をおそらく左右し得ないので該当しない?
>刑法的視点で眺めると、「私的制裁」「自力救済」という印象の枠内に収められかねない。しかし、憲法学的に見ると、「自己実現」の中に辛うじて入りそうである。
>もし、被告人が“告訴する気は毛頭ないが、相手は、少しは怖い思いをするべきだ。それで済ませよう。”と考えていたら、どうであろうか。
> 刑法学的に見ると、“怖い思いをするべきだ”の中に「私的制裁」の意図を見出すこともできなくはない
>“済ませよう”の中に、「自力救済」の意図を見出すこともできなくはない。
>反省に実を伴わせるために、甘受すべき不利益を相手に自覚させると、私人に処罰権限はないと批判される。
>内輪で軽く済ませるために、心理的に原状回復を図ると、裁判所を通さなかったと批判 される。
>憲法的視点で見れば、自分の力で自己の立場を回復しただけである
>人頼み・国家頼みでは、自己効力(self-efficacy)を強化できない。自己肯定感は、高まらない。とはいえ、自分を軽く見 ている相手に、非力な人が立ち向かうには、国家の実行力が控えていることを相手に確認させて意識 させねばならない。
>裁判所を通さなかったのではなく、国頼みにしなかったのである。
>制裁を加えた のではなく、自覚を求めたのである。
>この「自己回復」とでも呼ぶべき通告者の利益は、表現の自由の根拠とされる自己実現の中に辛うじて包摂されるものであると考える。
議論の余地がありそう
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> 刑法的視点では、ひとたび構成要件に該当すると、あとは「その表現を正当化するような事情があ るか」という形で判断されてしまう。しかし、憲法的視点では、「その表現を国が禁圧するに足 りるだけの事情があるか」という形で審査される。
> 刑法 222 条の「脅迫」の内容は、憲法 21 条の趣旨にかなうように、限定的に解釈されるべきであ る。大正3年判決は、そのための妨げとはならない。判決傍論の拘束を免れ、憲法的視点を加味する と、脅迫罪不成立説の言い分にも奥行きを与えることができるようになると思われる。
裁判上の常識は裁判所は「
常識」として捉えているようだ(仕方がないとはいえ理不尽感はある)
>Bの車のドアを500円玉で傷付けたAは、その現場をBに目撃されました。怒ったBは「器物損壊罪で告訴してやる!」と言いましたが、告訴されることを恐れたAは、50万円支払う代わりに告訴はしないことにしてもらいました。この場合、Bの行為は脅迫罪に該当するでしょうか?
>BがAを告訴するつもりがなかった場合は格別、真実告訴するつもりで「告訴してやる!」と言った場合には、Bに脅迫罪が成立することはありません。
「つもり」の判定はどう行われる?
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2022/4/27 疑問形ではなく結論にしたかったのでタイトル変更
前タイトル:訴えの表明は脅迫罪になるか?
? 訴える気がないのに「訴えてやる」