学生運動
戦後の学生運動
>1918年12月東京帝国大学に新人会、同年京都帝国大学に労学会(同じ頃に野坂参三らがつくった東京の労学会とは別)
>翌1919年2月21日早稲田大学に民人同盟会がそれぞれ設立された。
>その後これらの団体は普選運動に参加し、1919年1月学生による運動が起こったが
>翌1920年5月10日の第14回衆議院議員総選挙と戦後不況により衰退した。
>第二次世界大戦中は完全に解体されていた学生運動は戦後すぐに復活した。
1948年 全日本学生自治会総連合(
全学連)が結成
>全学連は当初は日本共産党の影響が強く、その活動方針と軌を一にしていた。
>しかし、1955年の日本共産党第6回全国協議会(「六全協」)で、共産党が現場の運動家を半ば置き去りにする形で大幅な路線変更を行ったことを契機として徐々に距離を置くようになり、
武装闘争路線を転換した共産党への不満が新左翼を形成
じゃあそもそも共産党は武力闘争をしていたんだね
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1960年の日米安全保障条約改定をめぐる反対運動(
安保闘争/安保紛争)
>全学連(安保全学連・ブント全学連)が運動の中心を担った。
>東京大学文学部の学生だった樺美智子(かんばみちこ)が機動隊とのもみ合いの最中に死亡し、象徴的事件となった。
>1959年、岸信介内閣が日米安全保障条約の永続化を目指すと、普段は政治と接点のない一般国民の間からも激しい反発の声が上がった。
>日本社会党・日本共産党が、突出した闘争で支持者が離れることを恐れて請願デモしか行わない
>共産主義者同盟(ブント)に結集した全日本学生自治会総連合は、国会突入などの実力行使で一部の国民から喝采を浴びた(60年安保闘争)
>「闘わない既成左翼、闘う新左翼」とは、この頃新左翼の側から発生した表現である。
1960年代中盤
>ベトナム戦争反対などの運動を通して、再び学生運動が盛んになってきた。
>早稲田大学や慶應義塾大学などで学園紛争が起り始める(第一次早大闘争)。また新たに結成された三派全学連は、羽田闘争を皮切りに街頭で数々の武装闘争を繰り広げた。
1968年(昭和43年)頃
>東大闘争、全学共闘会議(全共闘)と呼ばれる運動形態が現れた。
>党派や学部を越えたものとして組織作られ、ノンセクト・ラジカルと呼ばれる党派に属さない学生が数多く運動に参加した
>それまでの全学連のような特定の政治党派の影響が強い既存の学生自治会に拠る運動とは異な
>彼らは武装を辞さず、大学をバリケード封鎖することによって主張の貫徹を試みた。
1970年
>学生側には分派が生まれ、党派闘争が発生し...殺し合いに発展していく
1980年