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チベット




1950年10月 中国人民解放軍 4万人がチャムドを攻撃。2日で陥落
インドは中国を非難、アメリカ・イギリスが支持
1950年6月 英国政府「中国のチベットに対する宗主権を認める準備は出来ている、しかしチベットは自治権を尊重されていることだけは理解してほしい」と表明

1912年 - 1951
>ダライ・ラマ政権は、チベットの国土の半ば以上に排他的実効支配を確立(事実上の独立状態)し、国際社会に対し、国家としての独立を求め、イギリスをはじめ、独立国として承認されていた

宗教は仏教
763 の長安攻略 
1913 ダライ・ラマ13世 チベット独立宣言
1911 辛亥革命で清朝消える
1949 国共内戦に勝利した中国共産党がチベットも欲しがる
17ヵ条協定を飲まされる
人民解放軍をチベットに入れる
政治制度は変更せず
統治者に干渉せず
宗教や伝統を尊重する
など
ラサを脱出しインドへ亡命
パンチェン・ラマ10世はチベットに残る
中国共産党は厚遇し、ダライ・ラマ14世を失脚させてパンチェン・ラマ10世を親中国のチベット民族指導者にしようとした
中国「チベット政府は解散した」
ダライ・ラマ14世「17ヵ条協定は武力を背景にした不平等協定。チベット亡命政府を樹立する」
インドは支持して中印国境紛争(1962)をするが中国が勝利
ダライ・ラマらは今も亡命を続けている
1964 パンチェン・ラマ10世、共産党を批判。ダライ・ラマ14世を支持。投獄される
1989年 パンチェン・ラマ10世、中国に逆らった演説をし、5日後に死亡
>公の場において「チベットは過去30年間、その発展のために記録した進歩よりも大きな代価を支払った。二度と繰り返してはならない一つの過ち」と自説を述べた。これは中華人民共和国政府の用意した演説原稿を無視した演説であった。その発言のわずか5日後、寝室で「心筋梗塞」で倒れ、約15時間後に死去したとされる
>チベット亡命政府は中華人民共和国政府に暗殺されたと主張しており、当時チベットに赴任していた胡錦濤や孟宏偉らが関わったとしている
迫害の歴史
宗教の制限
文化大革命で寺院が破壊される
愛国教育の強制
文化や言語
中国語で勉強することを強いられている
チベット語の教育を守る立場のタシ・ワンチュクに懲役(国家分離扇動罪)
関連
漢民族の入植政策
抗議活動
2009-2017年 150人が焼身自殺
中国国内の認識
中国の手が及ぶ以前は農奴だったので、それから解放してやった
批判:19-20世紀初頭は事実上農奴は解放されつつあった
その理屈なら日本の満州征服もいいってことになるが、よろしいので?
日本の認識
1つの中国を支持しているのでダライ・ラマ14世を歓迎できない
中国の顔色を伺っている
動画のコメントではチベットは水源だという主張がある