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要素のせいにできたら楽なのかもしれないけど
出来の悪い椅子があって、4 本ある木の脚のうち 1 本に強い負荷がかかるとする。何度か座っているうちにその脚は折れてしまう。折れてしまった脚を取り替えたとしても、強い負荷がかかる構造が変わらなければ新しい脚もまた、やっぱり折れてしまうだろう。

ネットワーク思考」というページに書いた通り、ぼくは対象の構成要素よりも構造の方に着目しがちな思考のクセがある。先の椅子の例でいえば「どうしてこの脚が折れたのだろうか?」「この脚が折れやすくなる構造になっていたのだろうか?」を気にしがちだ。

ぼくが構造を見たがるように、要素の方を見たがる思考のクセの持ち主も世の中にはいる。それはそう。

>@ikujidays: 小1の娘が学校から帰ってきて「今日ね、校長先生と遊んだの!遊ぼうって言ったらいいよって言ってくれて、校長室に入れてくれて一緒に折り紙したの」とニコニコで教えてくれた。
>娘のコミュ力もすごいけど、一年生と折り紙で遊んでくれる校長先生も素晴らしいな。

>@ikujidays: このほっこりする校長先生エピソードに「女児と校長室で2人きりでなにかあったら‥」って引用が何件かついていたのですが
>安心してください。
>娘の校長先生は女性です!!!!!!
>それにしても、校長先生すら疑いの目で見てしまうとは、嫌な世の中だよねぇ‥

この例では「校長先生が信頼できる人かどうか」が着眼点になっていて、校長先生という登場人物、要素の特性を全面に押し出している内容に見えた。ぼくはどちらかというと、やっぱり「児童と大人がふたりきりになることを許している構造」に意識が向く。この構造にアプローチしていかないと、いつか事件や事故が起きてしまうだろうと考えがち。

自分が校長先生の立場で、仮に「自分はぜったいに児童を相手に悪いことはしない」と強く思っていたとしても。自分が悪い構造を生み出してしまって、自分のあとに校長先生になる人が間違いを犯すきっかけになったらイヤだなあ、と考える。なので「うちの学校では、校長室はガラス張りにします」といった事件・事故が少しでも起きにくい構造づくりに力を入れたい考えだ。

ジャニーズ事務所の問題について「タッキーの事務所なら安心だ」という声を見かける。構造の持つ力にあまりにも無頓着ではないか、と思う。事務所や芸能界の力学というか、パワーバランスというか、権力構造の方を変えられないのだとしたら、第二第三の捕食者が現れるのをただ待つことになるだろう。そうしてなにかが起きてしまったあとに「そんな人だとは思わなかった」とコメントする羽目になるとしたら、あまりにも滑稽だと思う。

小宮信夫さんによる犯罪機会論の話をたいへん興味深く拝読し「人より場所にフォーカスし、動機より機会にアプローチする」というページにまとめた。ここにもひとつ引用する。

>日本では、「人」に注目し、動機があれば、犯罪が起きると思われています。しかしこれは間違いです。動機があっても、機会、つまりチャンスがなければ、犯罪は起こりません。動機を持った人が、機会に巡り合って、初めて犯罪が起きるのです。そのため、動機をなくせなくても機会さえ与えなければ、犯罪は起きません。

小宮信夫さんの言う「機会」ってのは、ぼくが言っている「構造」と近いものだと理解している。

少し話を変えて、お仕事の文脈での構造の話をしてみたい。まず、ぼくは「仕事のできる人・できない人」という区分が感情的に苦手だ。「しごでき」のようにほめる文脈だとしても、だ。繰り返し述べているようにぼくは構造を気にするので、ある人が活躍できるかどうかは職場にマッチするかどうかに強く依存すると考えている。その人の個人的問題であるかのように断じてしまう態度には共感しない立場を取っている。


こういった職場の話を見て思うのは「うまくまわる構造をつくれなかったのだな」ということ。構造というのは、具体的には「人員配置」「役割分担」「人員採用計画」などを想定している。たまたまサポート役を担当することになった個人に多くを任せすぎで、組織として構造的な対応ができていないところに問題があるように思える。

冒頭の椅子の話に戻って、たとえば「木の脚」の代わりに「鉄の脚」を取り付ければもう折れることはないかもしれない。これは構造的な解決を試みず、要素の力に頼るアプローチと言えるだろう。たまたまうまくやれる個人がいれば業務はうまく進み、そうでなければ破滅する。こういうやり方はギャンブルでしかないと思う。要素による解決と構造による解決と、バランスよくアプローチを選んでいきたい。