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人間の生き方、ものの考え方
> 教養というのは根本は心遣いです。 細かい心遣いです。 あらゆる対象に接して、品物でもいいし、人間でもいいわけですが、そのときにいつでも相手の気持になってつき合う気持、それが私は一番根本になければならないと思います。 今日ではつき合いと言えばいやいやながらという意味に、何か心ならずもという意味に使われるようになって来ております。 それはもちろん正しい使い方ではないと思いますがつき合いというものの中には、自分を殺さなければならないという、つらい面があるのは事実です。 ところが今日の教育なり、 思想なりの傾向は、そのように対象につき合うということはあまり重んじないのです。 だから男女同権の問題でも何でも、大てい問題になってくるのは、あいつの方がとくをしているということですね。 「男の方がとくをしている」 と女の人はいうわけです。 「だから女にもとくをさせろ」ということになる。 そこには相手に仕えようという気持は全然ないのです。 文明というものはみんなそうなので相手に仕えないですむように、二人の間にいろいろ物を置こう、機械を置こうとするわけです。 だから文明が発達すればする程相手につき合うという気持がなくなってくるのです。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置520
> ところが日本ではいま言ったように外国の文明を取り入れたのだから、大変時間がかかるにもかかわらず、考えるのは短兵急で忽ちのうちにその近代化が西洋にすぐ追いついてしまう、そして日本独自なものを忽ちのうちに出そうとして焦る。 そうすると今度はそれが非常に固陋な国粋主義になってしまったりするのです。 こうして日本は左へぐっと傾いたかと思うと右へ傾いていく、明治以来歴史をみるとみんなそういうことをやっている。 結局は焦るからなのです。 ゆっくりやればいいので、 自分の子や孫の時代でもいいし、 もっと先でもいい、そういうところに焦点を合わせてゆけばいいのです。 「自分の目の黒いうちに」というのはエゴイズムなのです。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置599
> 「愛」という言葉がございますが、 私達は人間の心と心がそのように完全に一致することがありうるか。あり得ないのではないかという一つの絶望感——伝達不能、愛の不可能という一つの絶望から出発しなければならぬと思います。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置670
> 今日の歴史学者の多くは唯物史観を信じている人達です。 また唯物史観を信じないまでも、一つの価値判断を持っていて、人間は永遠にユートピアを目指して進歩するという考えを持っています。 その場合、 進歩という言葉の意味がまた問題になるのですが、 それは後でふれることにして、とにかくある観点から一つの目的地を描き、その目的に都合のいいように歴史が動くと考えるわけです。 つまり、 あらゆる時代は、常にその次の時代に至るまでの「はしご」 だと考え、 その時代自身の自立性というものを否定してしまうわけです。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置700
> つまり歴史というものは、その当時の人たちの中に入って見なければ分らない。 要するにわれわれは自分を歴史の方につき合わせなければならないのです。 歴史をわれわれにつき合わせてはならないということを、最初に申し上げて 「近代化」の問題にはいって行きたいと思います。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置724
> 私は、近代化というのは単なる歴史的必然だと思うのです。 進歩という場合も同じことで、これはいいも悪いもない、その中に価値は絶対に含まれないと思います。 「犬が西向きゃ尾は東」 というようなごく当り前のことで、 放っておいても人間は進歩し、 放っておいてもあらゆる国は近代化の過程を辿るにきまっています。 それは価値ではなく歴史的な一つの必然性に過ぎないと思います。 それに対して過大な夢を抱くことが大きな誤りであると同時に、それを目の敵にするというのも大きな誤りであります。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置759
> しかし、私たちは未来については何も分らないのです。 勿論ある程度の予測はできますが、 一〇〇年後、二〇〇年後の未来がどうなるかは断言できない。 それなのに、 過去の必然性から帰納的に話を進めていくのではなしに、 未来像という一つの観念の方へ歴史を近付けようとする。 そうなれば歴史が邪魔になり、 錘になって手枷、足枷になって来ます。 それをどんどん切り捨てる、 これは実におかしいことです。 人間は放っておいても進歩するものです。 だから、 むしろ歴史につき従ってゆくことを前提として、そこに革新ということが起るのです。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置894
> もし当時の軍隊に入って来る人たちが、 非常に近代意識に目ざめていて、 今の人のように人権蹂躙だとすぐいきり立ったならば、 日本の軍隊は日露戦争には勿論勝てなかったし、 日清戦争にも勝てなかった。 とうの昔に清国やロシアの属国になっていたに違いないのであります。 すなわち前近代的な人たちによって近代化が成り立ったとも言えるわけです。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置943
> 「平和」 という言葉もそうであります。 これはあくまで政治概念であって、 この言葉の定義は、 世界的にも最も権威のある OED (オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリィ) をお引きになればわかりますが、これは戦争のない状態、 あるいは交戦していた二国もしくは数か国が戦争を止めたことを意味する、あるいは平和条約、戦争の最後に結ばれる平和条約を意味するということはでておりますが、 道徳的な意味で、人が相和するという意味では絶対に使われておりません。 ところが日本では、この政治概念にすぎない平和がいまでは道徳概念のように使われ出してきてしまっている。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 位置 1097
> つまりそこには目に見えないタブーがある。 だがそのことがわからなくなっている。 だから諸君は、 いまの世の中で目に見えないタブーというのを見つけるのに、虎視眈々としていてよろしいのです。 いまの人命尊重についても、一度は「なぜ人命は尊いのか」 と極端に考えたほうがいいと思います。 人命尊重というのはなぜいいのか、なぜ人を殺してはいけないのかと一応考えたほうがいいと思うのです。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 位置 1173
> 今の世の中では人命尊重ということから、殺人が一番悪い犯罪になっていますが、 私は人質犯罪は、殺人以上に凶悪な犯罪であると思うのです。 つまり人の弱みにつけこんで、 人質をとってお前がいうことを聞かなければこいつを殺すぞという、これくらい悪い犯罪はない。もしかれらの要求をいれて人質の命を助けるために、 明らかに犯罪者として逮捕している人間を釈放するということになれば、国家、政府の権力がかれらよりも弱いということを立証することになるのです。 これができればどんな犯罪でもできる。 こうして日本の国家全体を否定するようなことを要求しても、人質を持ってさえいればできるのだという観念を人々に植えつけてしまう。 これは実に大きな問題だと思うのです。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 位置 1177
> さきほどの民主主義もそうなのですが、 「民主主義なんか糞くらえ」といったっていいのです。 しかし、そう言うと「糞くらえとは何ごとだ」と言う人が必ずいる。 どっちのほうが正しいかということで言論の自由というものが成り立つわけですが、 民主主義ということになるとこれはもう絶対にやっつけてはいけないというタブーになっている。 すなわち、ここには言論の自由はないわけであります。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置1210
> さきほどの原稿を書く数日前ですが、 広島の大学の新聞部からインタービューがあって、 八月六日の原爆記念日について意見を聞きたいと言ってきた。 それで私は、 「馬鹿もいい加減にしろ」といったのです。原爆記念日などというのは負けの象徴であって日本人にとっては不名誉なことなのだ。 あの当時日本でも原爆をつくろうとしていたが、 日本人の知能あるいは経済力とかいったものがアメリカよりも劣っていて、 要するにアメリカの方が先につくってしまった。 それで原爆を落されたということは、日本にとって特権ではなくて屈辱なのであって、恥ずべきことはあんまり大げさにしないほうがよろしい。 ましてそれを記念日にすることはない。 記念日にするのならひそかに自分の心の中で、 「これからやっつけてやろう」 ということで記念日にするのならいいが、 そうじゃなくて 「広島から世界に平和を」 というような思いあがった気持は一体何か、 原爆を落とされるような人間に原爆を止めさせる力がありますか、 そんな人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置1214
> 私は平和記念日とか平和とかいうものに興味をもっていない。 もっと大事なことはたくさんある。第一平和というのは一体何だ、 平和になったらどうなったのだ、平和というのは戦争がないということにすぎないのだ、それよりも大事なことは愛とか信頼とかいうものの回復ではないか、 それは戦争とか平和とかいうことと全然次元が違うもので、戦争のときにも平和のときにもその問題は依然として存在する。 むしろ戦争のときにかえって自己犠牲とか愛とか信頼とかいうものが強く発揮されることがある。 だからといって、 私は戦争のほうが平和よりいいとは言わない。 しかし、 平和ということ自体には何の価値もない」人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 ・ 位置 1224
> それからもう一つ申しあげたいのは、タブーに近づく方法とは、 何も堅苦しい礼儀のみではないのであって、 ウイットとかヒューモアとかいうものもタブーを解く手段なのです。 この点に関して言えば、日本人は、少なくとも明治以後の日本人はそれが足りなすぎるのではないかと思います。 全部が正義派になってしまっている。自分がみんな正しいのだというふうに、 正義の士、憂国の士になっていて、ヒューモアが一つもない。私はそういう堅苦しい憂え方というのは、かえって逆効果になりはしないかという危惧を抱くのです。 と同時にそういうのをやっつける人間にもヒューモアがない。 これは現代の日本人の欠陥だと思います。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 位置 1338
> そこで私の言うヒューモアというのは、論じている対象、あるいは戦っている相手との間の距離を広くする、 ゆるくするということなんです。 それが許すことになるわけです。 それは、何でもいい加減に「寛容と調和」でゆくのだなどという意味ではなくて、距離をおくということです。 自分に対しても他人に対しても、それから論じている対象に対してもいつでも距離をもって眺める。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 位置 1386
> 先程も申しましたが、 自分というものは何なのか、 自分は自分を理解しているか、 自分の能力は一体どれだけのものかというように考えると、凡そ物を理解する場合、一番理解しにくいのは自分なのです。 だからみんな人のせいにするのです。 自分の眼で見える外の物ばかり見回して、 どこかに悪いところがないか、 何か自分の邪魔をしている物はないかと考えて、自分が悪いのだとは思わない。 しかし、よく考えてみると、 俺が俺の邪魔をしているのだということがあるかも知れない。 自分の能力や、 自分の性格が、 自分のしたいことを邪魔していることに気づく。それをやるのが自問自答です。 自分を発見するということ、 それが一番むずかしいのです。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 位置 1523
> この頃、年とった人間は古いという人がいますが、 古いということは悪いことではない。 今の世の中で何となく洗脳されて、古いと言えばかたがつくと思っているのですが、 古いことはいいことなのです。 多くの過去を所有しているということは、昔から年の功と言ったもので、これを昭和二十年、 三十年に生れた人が、 私より大きい顔をされると、私は不愉快になります。 そんな馬鹿な話はないのです。 皆さんを前に置いて言うのは悪いのですが、諸君の持っている過去はせいぜい二五年くらいしかない。 こっちはもっと沢山持っているのですから、私の方が金持ちなのです。 その、過去を沢山持っている人間は古いのだと言われると、 それはおかしいのです。 人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 • 位置 1595
> さっきから、歴史や言葉の問題を話してまいりましたが、 皆さん誰しも間違えていることがあります。それは、歴史を学ぶ、言葉を学ぶ、 自然を学ぶという風に思っている。 そういう考え方は間違っているので、われわれは歴史に学ぶのです。 歴史がわれわれを教える。われわれは歴史から教わるのです。 自然から教わるのです。 言葉から教わるのです。 それは、 さっきの知識と経験ということとも関連してくるのですが、 歴史を学ぶという場合には、知識として学ぶということになります。 それは逆で、 歴史が私たちに教えてくれるのです。 歴史から学ぶのであって、歴史を学ぶのではありません。 こうして歴史から学ぶ、 言葉からも学ぶという態度が大切だと思います。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 位置 1663
> 長い間つきあっているたった一人の人間、たとえば女房の気持ちでさえ、 私などにはまだ分かりはしないのです。 けれども分からないながら、いや、わからないものを相手が持っているからこそ、 信ずるに値すると思って附合っているわけです。 分からないから誤解というものが生ずる。 誤解というのも一つの理解の方法だ。 理解の一つの型です。 だから、 自分が自分を誤解することもあるし、 人を誤解することもある。 そういうものの積み重ねで人間社会ができ上っているという風に覚悟した方がいいと思うのです。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 位置 1726
> 一番いけないのは、 自分の小さな理解力で理解できるように、相手なり、 神なりを、その枠内に閉じこめてしまうことです。考えてもごらんなさい。 簡単に分かってしまい、説明し、分析してしまえるものは、まずつまらないものに決まっているではありませんか。人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存 ・ 位置 1731
> 昭和四十一年の講演 「『近代化』とは何か」 において恆存はかういふ言ひ方をしてゐる。 「一体この世の中に、個人の存在に先だって存在するものは何かと考えますとそれは三つあります。 歴史と自然と言葉であります。」人間の生き方、ものの考え方 福田 恆存・位置1777