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Foorin『パプリカ』とサマーコンプレックス



まともに聞いたことがなかったのでちゃんと聞いてみた。Foorin版と米津版を一回ずつ。(Foorin版は動画埋め込みが不可能だったので各自検索して欲しい)

すこし説明しておくと、『パプリカ』は米津玄師が東京2020に向けて作り、子供たちのユニットであるFoorinに歌わせるために作った曲……のようだ。Foorin自体がパプリカを歌うためのユニットであり、もうすでに解散が決定しているらしい。

まず思ったのは、「子供に歌わせるにはどうなんだ?」というところである。この「どうなんだ?」という感覚は、「暗すぎるのでは」とも「深すぎるのでは」とも言い表せる。
パプリカの曲調はどことなく暗く、音程も低い。少なくとも“元気いっぱい!”という感じではなく、「子供が歌う歌」としてはあまり聞かない曲だな、と思った。
また、歌詞は明らかに米津感が強く、どことなく喪失やノスタルジーを感じさせるようなものだった。
過去を追憶するような、それを希望に繋げるような曲だ。これを子供――つまり、人生経験が浅く、そのような機微を感じる必要がない年齢のひと――に歌わせるのは、合ってないんじゃないか、と思った。

しかし、これはFoorin版を最後まで聞くことである程度言語化出来た。
この曲は、まさしく米津玄師が子供に歌ってもらう為に書いた曲だ。
この曲は「子供の歌う曲ではないが、子供が歌わないと意味がない」曲なんだ。

この考えは米津版を聞くことでより補強された。子供が歌う『パプリカ』より、明らかに心を動かすパワーが違う。これは、「米津版の方がノスタルジーを感じない」ということだ。
原因の言語化を試みるなら、響きすぎているような……暗すぎるような、上手すぎるような……やはり難しい。「感情が乗りすぎている」が一番近い気がする。


何が違うのか、と考えると、やはり歌っている“ひと”の立ち位置なんだと思う。
ノスタルジーも喪失もここにあるはずなのだが、米津が歌うパプリカには喪失を感じない。米津は明らかにFoorinよりも上手く喪失を歌声に乗せているのにも関わらず、である。

Foorinが歌うパプリカにあるのは、やはり子供特有の幼さや無邪気さだ。勿論、曲調はそのままだし、歌い方も工夫されているのだとは思うが、イメージとして、所々に“明るさ”が入っている。喪失やノスタルジー、上手さを全面に押し出していない。どこか拙さが残っている。

この曲……『パプリカ』自体がイメージさせるのは「あの夏」である。表題にもしたサマーコンプレックス(“正しい夏”)が含まれる、“経験したかもしれない”「あの夏」だ。
そこには喪失があり、ノスタルジーがある。幼心に経験していたかもしれないひと夏の出来事が、存在しないにも関わらず想起される。

Foorinが――子供が歌うパプリカは、歌う立ち位置が、“まさに「あの夏」に居たそのひと”のように思う。つまり、“幼かった自分”だとか、“記憶の中の幼い友達”だとか、そういうことだ。
反面、米津のパプリカに居るのは、“「あの夏」を追悼する人”に近く、追憶の追体験をするような二重構造になる。
だからこそ、この曲は、子供が歌わないと意味がない曲として書かれているように思う。

「はしゃいだ道」も「会いに行くよ」も、無邪気さや拙さがないと、実感として受け取れない。子供が歌うからこそ、実感が生まれ、“あの夏の無邪気さ”を聞き手はこころの中で再生産する(実際に無いとしても)。
その再生産があるからこそ、歌詞の喪失が際立つし、ノスタルジーがより刺激される。
「喪失の為に獲得させる」歌なのだと思う。

表題に「サマーコンプレックス」を用いたのは、この、“実際にはない喪失の為に、創作されたものを獲得する”という構造が、サマーコンプレックス、および感傷マゾヒストにより近く、有意義な手法に思ったからだ。

サマーコンプレックスは、実際には存在しない正しい夏を思い、自分の過ごす夏がそうではないと思うことで、喪失感や無力感といったマイナスのイメージを想起するものだ。
僕たちは創作によって“正しい夏”を獲得させられていて、実際にはそんなものがないとしても、それを失ったと考える事ができる。理想の夏を過ごしたことがないと言える。
その“正しい夏”“理想の夏”のイメージを、米津玄師は“子供の声”を使うことでぶつけようとしていて、実際それは有効だった。

より存在しないはずものに、生々しい“実在性”を用いることで、これもまた存在しないはずの“喪失”すら生々しくなる。
こういった手法は参考になるし、心のどこかにとどめておきたい。

何がいいたいかと言うと、めっちゃいい曲ってことです。


(youtubeのコメント欄見たら、「米津玄師版の方がノスタルジーを感じる」「Foorin版は“この夏”って感じ」みたいな意見があり、全然逆だろ、と思いました。Foorinが歌うのは、Foorin目線では“この夏”なんだけど、聞き手の僕らからしたら“あの夏”だから、その違いがよりノスタルジーや喪失を高めるんだろ!! ってキレたせいで長文書いちゃった。オタクすぎる。cman)


こんちには。コメント失礼します。(何か問題がありましたらこの文は削除します)
記事が面白かったので、私もパプリカを
2種聴きました。
私としては米津さんの方はお盆の墓参りの追憶の印象を受けて、確かにノスタルジー以上に感情が入っている感じがしました。
Foorinの方は、米津さんの方のmvのような、会いに行くよなどの実感のこもった、まだそれができる夏の範囲で歌っているのが我々にとっての「あの夏」なのかな。そんな感じを覚えました。(夜詩)