道徳形而上学の基礎づけ 読書メモ(くま子)
本訳書ではアカデミー(KantsWerke,AkademieTextausgabe,III,GrundlegungzurMetaphysikderSitten,WalterdeGruyter&Co.)を底本とし、ズアカンプ社版の全集を参考にしている。
訳語については、『純粋理性批判』の場合と同じように、できるだけカントの定訳となっている訳語を使うのを避けている。
「悟性」(Verstand)は「知性」と訳し、
「傾向性」(Neigung)は「心の傾き」と訳す。
認識論が中心だった『純粋理性批判』では「格律」(Maxime)は「主観的な原理」と訳したが、道徳論である本書では「行動原理」と訳す。
安部火韻さんのカント講義から。
ア・プリオリ=純粋。経験に先立つ
↕
ア・ポステリオリ=経験的。経験した後で
解説から。
カントの定義では、
動因は「意欲の客観的な根拠」(082)を指し、
動機は「欲求の主観的な根拠」(同)を指す。
序文→
第一章 道徳にかんする普通の理性認識から、哲学的な理性認識へと進む道程→
第二章 通俗的な道徳哲学から道徳形而上学へと進む道程→
第三章 道徳形而上学から純粋な実践理性の批判へと進む最後の道程→
哲学の三分野
古代ギリシアの哲学は三種類に分類できる。
自然哲学
論理学
倫理学
実質的な認識と形式的な認識
理性には、実質的な認識としてある対象を考察するものと、形式的な認識として対象の違いに関わらず思考の一般的な普遍的規則を考察するものとの二種類に分けられる。
形式的な理性認識である形式的な哲学→論理学
実質的な理性認識である実質的な哲学
→特定の対象にかかわり、こうした対象がしたがっている法則を検討する。この法則は二種類に分かれる。
自然の法則→自然哲学(自然学)
自由の法則→倫理学(道徳学)
論理学→経験的な部分を含めることができず、知性及び理性のための基準として、思考で全てが完結する
自然哲学→経験的な部分を含めることができ、経験の対象である自然についての法則を規定するものであり、その法則には全てのものが従っていなければならない
倫理学→経験的な部分を含めることができ、自然によって触発される人間の自由意志の法則を規定するものであり、その法則には全てのものが従っている必要はない(その場合の条件についても考察する)
経験的な学問と純粋的な学問による分類
純粋的な学問
形式的→論理学
知性の特定の対象を考察する→形而上学
自然の形而上学
道徳の形而上学
経験的な学問
自然について→自然哲学(自然学)
人間の自由意志について→倫理学(道徳学)
経験的→実践的な人間学
合理的→本来の意味での道徳哲学
つまり、
自然哲学
自然の形而上学
経験的な自然学
倫理学
道徳形而上学
経験的な倫理学
ここまでのカントの問題提起
経験的な部分をつねに合理的な部分から慎重に峻別すべきではないだろうか。
本来の意味での(経験的な)自然哲学よりも自然の形而上学を優先し、実践的な人間学よりも道徳の形而上学を優先すべきではないだろうか。
自然の形而上学と道徳の形而上学からは、すべての経験的な要素を注意深くとり除くべきではないだろうか。
そうすれば純粋な理性がこれらの形而上学においてどれほど多くのことを実現できるかが明らかになるだろうし、純粋理性がどのような源泉から、そのアプリオリな理論を汲みとっているかが明らかになるだろう。
本書の目的
本書の目的はそもそも道徳的な哲学を考察することにある
[経験的な部分を合理的な部分から慎重に峻別すべきではないかという]問いの考察から、[実践的な]人間学に含められるようなすべての経験的な要素を完全に除去した純粋な道徳哲学を一度は構築する
義務や道徳法則という通常の理念に従っても、このような純粋な道徳哲学が存在すべきであることは、明らかだから
純粋な道徳哲学
すべての人は、次のことを明白なこととして認めるに違いない。
①ある法則が道徳的な法則として、義務の根拠として妥当しなければならない場合には、絶対的な必然性が備わっていなければならない⇨
カントの義務論? ②どんな理性的存在者であっても、「汝、噓をつくなかれ」という命令を無視することはできない。このことは[この命令だけでなく]他の全ての本来の道徳法則にあてはまる
③[前記の二つのことに基づいて]だから道徳法則が義務として妥当すべき理由は、単に人間の本性に基づくものでも人間が生活している世界の様々な事情に求めるべきものでもなく、ただ純粋な理性の概念のうちにアプリオリに求める必要がある
④[道徳的な法則ではなく]単なる経験の原理に基づいたその他のすべての掟も、ある意味では普遍的なものであるが、おそらくはその動因だけについて、経験的な根拠に依拠している掟は、たしかに実践的な規則ではあっても、これを道徳的な法則と呼ぶことはできない⇨経験から導き出された規則は道徳的な法則とは呼べない
道徳の形而上学(純粋的)が必要不可欠なのは、人間の理性のうちに純粋に存在している実践的な原則が生まれてくる源泉のありかを探るためである。
実践的な原則と道徳について正しく判断するための最高の規範が欠如したままでは、道徳そのものに様々な種類の堕落が発生する可能性がある
というのは、ある行為が道徳的に善であるためには、道徳的な法則に“適っている”だけでは不十分なのであり、その行為はこうした“道徳的な法則のため”に行われなければならないから
そうでなければ、その行為が道徳的な法則に適っているように見えても極めて偶然のことであり、疑わしい
というのは不道徳な根拠からも、ときには法則に適った行為が行われることがあるものの、法則に反した行為が行われることのほうが多いから
→【解説】
「堕落」とは、本来の意味で道徳的でない行為が、道徳的なものとみなされ、それによって正しくない道徳的な理論が生みだされる事態である。カントが何よりも注目するのは、疑似道徳的な行為である。外見からみて善い行為であっても、道徳的でない行為があることが問題なのである。こうした行為を道徳的な行為とみなすような道徳哲学は、その根幹に理論的な混乱を含んでいるとカントは考えるのである。
道徳的な法則が純粋で真正なものであるためには、そうした法則は純粋な哲学のうちに求めなければならない
だからこそまず純粋な[道徳の]形而上学が確立されなければならないのであり、[道徳]の形而上学なしでは、道徳哲学はそもそも存在しえない
すでに指摘したように、純粋な原理を経験的な原理と混ぜ合わせるような哲学は、そもそも哲学という名前に値しない。
この書籍の立ち位置
『人倫の形而上学』に先立って発表されたもの。本来であれば道徳の形而上学を基礎づけるのは、純粋な実践理性の批判であるべきである。 それは[自然の]形而上学を基礎づけるのが、すでに発表した純粋な思弁的な理性の批判[『純粋理性批判』であるのと同じである。
[思弁的な理性の批判を実践的な理性の批判よりも前に発表した]二つの理由
①思弁的な理性の批判と比較すると、実践理性の批判はそれほど緊急に必要なものではないから。批判の書物なしでも、人間の理性は道徳的な事柄においては、ごく普通の知性によってでも、容易に十分な正しさと周到さに到達することができるのである。これに対して、理論的かつ純粋に使用されると、人間の理性はまったくの弁証論に陥るのである。
②純粋な実践理性の批判を行うためには、思弁的な理性[純粋理性]と実践理性が共通の原理において一致するものであることを提示できる必要があるとカントは考えている。結局のところは実践的な理性と思弁的な理性は同一の理性であり、ただその使用において区別する必要があるだけだからである。
しかし本書で、カントはそのような完璧さを期することはできなかった。
だから本書を純粋な実践理性の批判と名づけるのはやめて、道徳形而上学の基礎づけと呼ぶことにしたのである。
道徳形而上学は、実際にはかなり平易な書物であり、一般の知性をそなえた読者にもふさわしい書物になるはず。そのためにカントは道徳形而上学の基礎づけに関するこの予備的な研究を道徳形而上学そのものとは別の書物にすることにし、予備的な研究に避けられない細かな議論を『道徳形而上学』につけ加えないで済めば、『道徳形而上学』はいっそう理解しやすくなるはずだから。
→【解説】
『純粋理性批判』の「超越論的な方法論」においては、哲学は経験的な哲学と純粋な哲学に分類され、純粋な哲学は、「アプリオリな純粋認識について、理性の能力を研究する予備学」としての「批判」と、純粋理性の体系である形而上学に分類される。そして『純粋理性批判』はこの予備学としての批判の役割をはたすものだった。
カントは本書で、『純粋理性批判』が、自然の形而上学を基礎づける「批判」であることを指摘しており、道徳形而上学を基礎づけるのは「純粋な実践理性の批判であるべき」(011)だと認めている。
だとすると、この道徳形而上学の基礎づけは、『純粋実践理性批判』になるはずであるが、そのためには課題が大きくなりすぎるし、その前に「思弁的な理性と実践理性が共通の原理において一致するものであることを提示できる必要がある」(同)とカントは考える。
そこで「実践的な理性と思弁的な理性は同一の理性であり、ただその使用において区別する必要がある」(同)ことの説明は、『実践理性批判』にゆだねられて、本書ではただ純粋な道徳的な法則をとりだすことだけを目的とするのである。
道徳形而上学の基礎づけの課題
それは、道徳性の最高の原理を探求し、確定することにある。カントは、道徳性の最高の原理を探索し、確定するというこの重要な問題が、これまでは満足できる形で詳細に解明されてこなかったと考える。
その確固とした最高原理が道徳のすべての体系に適用されるならば、めざましく明瞭になるだろうし、この原理が体系のどの場所でもしっかりと妥当することが示されるならば、その正しさが大いに確証されることになるだろう。
> 第一章 道徳にかんする普通の理性認識から、哲学的な理性認識へと進む道程
善い意志
「無制限に善であるとみなせるもの、それはこの世界においても、この世界の外においても、ただ善い意志だけである。」←カントの有名な言葉
知性、機知、判断力、あるいは精神の才能、または勇気、決断力、根気など、気質の特性と呼ばれているものは、多くの意味で〈善い〉ものであり、望ましいものであることは、疑う余地のないことである。
これらは自然の賜物であり、これらを使用するのは私たちの「意志」であるが、もしもこの意志が善でない場合には、有害なものとなりうる。
幸福の賜物についても同じことが言える。権力、富、名誉を始めとして、健康、そして生活全体の安泰とみずからの境遇に満足していることを含めて、幸福の名で呼ばれるものは人々を元気づける。
善い意志は、人間が幸福であるに値する存在であるためには、必要不可欠な条件である。
「善い意志」を促進する特性
人間の「精神の」いくつかの特性は、この善い意志そのものを促進して、この善い意志が極めて円滑に働くことができるようにする。
ただしこうした特性も無条件に内的な価値のあるものではなく、つねに善い意志が存在することを前提とする。
このような特性としては、自分の激しい情動や情熱を抑制する傾向、自己の制御、冷静な配慮などがあり、これらは様々な意味で善いものとされるだけでなく、その人物の内的な価値の一部を形作るものとされている。
しかしこれらの特性には多くのものが欠けているので、無制限に〈善い〉ものとみなすことはできない(古代のストア派の哲学者たちはこうした特性を無条件に善いものだとして称賛していた)。
というのも、もし善い意志に備わる様々な原則がなかったならば、これらの特性はきわめて悪しきものとなりうるからである。
例えば、悪人が冷静な気質を備えている場合、この気質がなくただの悪人とみられている場合と比べて、はるかに危険な存在となるだけではなく忌まわしい人物となることだろう。
善い意志の不変な価値
善い意志が「善い」ものであるかどうかは、それがどんな働きをするか、どんな結果をもたらすかによって決まるのではなく、何らかの定められた目的を実現するのに適しているかどうかによって決まるのでもない。善い意志はそれが意欲されることによって、すなわちそれだけで善いものである
善い意志は、ある一つ(すべて)の「心の傾き」を満足させるために実現できるかもしれないすべてのものよりも、比較できないほど高く評価されるべきものである。
善い意志はそのすべての価値をみずからのうちに蔵するものとして、ひとり燦然と輝くのである。
意志の絶対的な価値という考えの疑念
このように、「たんなる」意志には絶対的な価値があり、それを評価するためにはいくつかの効用などは無視できるという考え方はきわめて奇異な感じを与えるものだ。
そのため常識的な見方ですらこのことには同意しているものの、ある疑念が生まれざるをえない。
こうした考え方の根本にはいたずらに高尚さを求める幻想が潜んでいるのではないか?
自然はたしかに意志に理性を支配する役割を与えているものの、私たちは自然の意図を誤解しているのではないか?
そこでこうした観点からこの「善い意志には絶対的な価値がある」という考え方を吟味してみることにする。
理性と本能
有機的な存在者である生物は、生命という目的にふさわしい形で組織された存在者であるが、こうした存在者の素質については次のように言うことができる。その存在者に備わるあらゆる器官は、その器官の目的にふさわしいものであり、目的の実現に最適なものである。
それと同様に、ここに理性と意志をそなえた存在者である人間がいたとして、自然がその存在者の本来の目的として、保存と安寧、すなわち幸福を定めておいたとするならば、自然がこの目的を実現させるために人間に理性を与えておいたのはきわめてまずいことだったに違いない。
というのは、この被造物がその自然の意図を実現するために実行するすべての行為もそのふるまいを規制するすべての規則も、理性ではなく本能によって指示される方がはるかに正確に行われたはずであるし、幸福を獲得するという目的もはるかに確実に実現されただろうからである。
それなのに自然は人間に本能だけではなくさらに理性を与えたのである。
だとすると理性が人間にとって役立つとするならば、それは人間が自分に本性として与えられた幸福な素質について考察したり、それに驚嘆したり、そのことに喜んだり、自然という恵み深い原因に感謝したりするためだったろう。
理性の使命
実際に啓発された理性が、生命や幸福を享受しようとする意図にかかわることが多ければ多いほど、人間は真の満足からますます遠ざかるようになることは、私たちは既に確認していることである。
そのために多くの人々(とくに理性の使用に最も熟練した人々)はかなりのミゾロギー、すなわち理性憎悪が生まれているのであり、こうした人々が率直であればこのことを認めるはずなのである(もちろんこうした人々も理性の行使によって多くの利益を獲得しているのだが)。
これらの利益のすべてを見積もってみると、自分たちはこれによって幸福を手にいれたというよりも労苦のくびきを背負い込んだことに気がつく。そしてついに、自分たちと比較すると、自然の本能の指導にしたがい自分のふるまいについては理性にあまり口をださせないようにしている通俗的な種類の人々を軽蔑するどころか、こうした人々を羨んでしまうのである。
というのも理性は、意志の対象を実現することにおいても私たちのすべての欲望を満足させることにおいても(理性はこうした欲望をみずから増大させることもある)、意志を確実に指導する能力がないのである。
この目的のためには、人間に植えつけられている自然な本能の方がはるかに人間を導くことができただろう。
だとすると理性の真の使命は、何か他の意図を実現するための手段としての善い意志をもたらすことではなく、それ自体において善であるような意志をもたらすことでなければならない。そのためにこそ、理性は絶対に必要だったのである。
①この意志は唯一の意志であることも全体の意志であることもできないにしても、最高の善でなければならない→理性の陶治が必要
②そしてこの意志は、他のすべての善の条件であり、幸福を求めるすべての欲求にとってもそれを実現するための条件でなければならない→この世の生活において様々な形で制約される
しかしそれによって自然は目的にふさわしくない形で行動しているわけではない。
というのも、自らの最高の実践的な使命が善い意志を確立することにあると考えている理性は、理性がとくに定めた「善い意志の確立」という目的が実現されたという満足を味わうことができるからである──たとえそのことによって「心の傾き」の様々な目的の実現がしばしば損ねられるとしてもである。
義務の概念
この善い意志という概念をさらに発展させるために、ここで義務という概念を検討してみる。
義務の概念は、様々な主観的な制約や障害のもとではあっても善い意志の概念を含んでいる。
こうした主観的な制約や障害は、その概念を隠したり見分けにくくしたりすることはなく、反対にその対照的な違いによってその概念を際立たせますます光輝かせるのである。
義務に適った行為と義務に基づいた行為
とくに区別が困難なのは、義務に適った行為であるがその行為に対して直接的な心の傾きを備えている場合である。
たとえば商人が買い物に慣れていない客に高い値段で商品を売りつけないとすれば、これは義務に適った行為である。売買がさかんに行われているところでは、たとえ抜け目のない商人でも、高い値段で商品を売りつけたりせずすべての人に定価で販売するものである。だから客は商人から誠実な扱いをうけるのである。
しかしだからといって、この商人が義務や誠実さという理由からこのような客の扱いをしたとはとうてい考えることはできない。商人がこのような義務に適ったふるまいをしたのは自分の利益を重んじたからである。
次に心の傾きからこのようにしたかどうかを検討してみると、この商人が客に対する直接の心の傾きによって、どの客にもえこひいきせずに定価で販売したのだと考えることもできない。
(義務と心の傾きが否定されたのだから)、このように商人の行為は義務からでも、直接の心の傾きからでもなく、利己的な意図だけから行われたのだと考えることができる。
自分の生命を守る義務
人間が自分の生命を守るのは義務であり、それだけではなく、すべての人はそのことに直接の心の傾きを備えている。
しかし多くの人々が自分の生命を守るために小心翼々と配慮をすることは、いかなる内的な価値もないし、「自分の生命を守れ」という行動原理(=格律)は道徳的な内容を備えたものではない。たしかに義務に適って自分の生命を守るのだが、義務に基づいてではないのである。
これに対し、度重なる不運と絶望的な心痛のために生きる喜びをまったく失ってしまった人がいるとする。この不幸な人が、心を強くもって自分の運命に臆病になったり打ちのめされたりせずに、むしろ怒りで立ち向かい死を望みながらも自分の生命を守るならば、そして自分の生命を愛するのでもなく心の傾きや恐怖によってでもなく、「生命を守る」という義務に基づいて生きつづけるならば、その人の行動原理は道徳的な内容をそなえたものとなる。
親切の義務
できるだけ人に親切にすることは義務である。
世間にはその本性からしてきわめて同情心に富んだ人々がいる。こうした人々は、虚栄心とか利己心などのほかの原因によって動かされないときにも、自分の周囲に喜びを広めることに心からの満足を感じる。そして自分の働きで他人が満足を感じることに楽しみを味わうのである。
ただしこうした行為は、それがどれほど義務に適っていて、愛すべきものであるにせよ、真の意味での道徳的な価値は備えておらず、名誉を求める心の傾きと同じような性格のものである。この名誉を求める心の傾きは、幸いにも実際に世の中の利益となり、義務に適ったものであって、立派な行為として認められるものであり、称賛と奨励に値するものではあっても、「道徳的な行為」として高く評価することはできない。
というのは、この行為の背後にある行動原理は道徳的な内容を備えていないからである。そうした行為を心の傾きから行っているだけであって、義務に基づいて行っていないのである。
逆に、心の傾きとはかかわりなく、義務だけに基づいて「親切な」行為をするならば、彼の親切な行為は初めて真の意味で道徳的な価値を備えるようになるのである。
自己の幸福の追求の義務
自らの幸福を確保することは、少なくとも間接的には義務である。
人間は多くの悩みごとに迫られ、さまざまな欲望が満たされないために、自分の境遇に不満を抱いていては、義務に逆らおうとする大きな誘惑を感じやすくなる。しかしここで義務を見出そうとしなくてもよい。
というのは幸福を求める心の傾きはきわめて強いものとして人間の心のうちに潜んでいるからである。人間のもつあらゆる心の傾きは、まさにこの幸福という理念のうちに集まって統一されているのである。
たとえばここに、足の痛風の病に悩んでいる男がいたとして、彼は(痛風に悪いことが分かっていながら)おいしい食事を楽しみ、そしてその後で痛風の病に苦しむことを選ぶかもしれない。
この場合には、(健康になって)幸福になりたいという人間にとっての普遍的な心の傾きが、この男の意志を規定することはなかったわけである。この男の見積もりでは、健康は少なくともそれほど必要とはされなかったのである。
しかしこの場合にも、まだ一つの法則が残されている。それは心の傾きにしたがうのではなく、義務に基づいてみずからの幸福を促進せよという法則であり、この法則に従うならば、食事を諦めて健康を求めたはずであり、そのときこの男の「自分の健康という幸福を追求する」という行為は初めて本来の道徳的な価値をもつようになるのである。
隣人愛の掟
聖書では「汝の隣人を愛せよ」とか「汝の敵すら愛せよ」と命じられているが、この掟もすでに述べたように解釈する必要がある。
心の傾きによって愛することを命じることはできない
義務に基づく仁愛は、いかなる心の傾きによっても動かされるものではない
たとえ抑えることのできないほどの自然の嫌悪の思いに逆らって行われるときでも、それは実践的な愛である
この愛は意志によるもの
この愛は行動原則に基づくもの
道徳の法則によって命じることができるのは、この実践的な愛だけなのである
意欲の原理
[第一の命題]道徳的な価値は、心の傾きによるのではなく、義務に基づくもの
[第二の命題]義務に基づいた行為が道徳的な価値をもつのは、その行為によってどのような意図が実現されるかによってではなく、その行為を実行することを決意させた行動原理による
それでは道徳的な価値が生まれるのが、行為の結果として期待されるものと関係する意志からでないとすれば、どこから生まれるのだろうか?
道徳的な価値は意志の原則だけによって生まれるのであり、こうした行為を引き起こすきっかけとなりうる行為の目的とは関わりがないのである。
意志は、アプリオリな「形式的な」原理と行為の内容に関わる「実質的で」アポステリオリな行為の動機の中間にはさまれている。意志は形式的にせよあるいは実質的にせよ規定されねばならず、行為が義務に基づいて行われるならば、その場合にはすべての実質的な原理が取り去られたために、意志は意欲一般の形式的な原理によって規定されねばならないのである。
[第三の命題]この二つの命題の帰結として生まれるものであり、義務とは行為の法則に対する尊敬の念に基づいた行為の必然性である。
尊敬に値するものは、私の意志の根拠となるものであり、私の意志の結果ではない
尊敬に値するのは、私の心の傾きに役立つものではなく、私の心の傾きを圧倒するもの、少なくとも選択にあたっては私の心の傾きへの配慮をまったく排除するものである
すなわちたんなる法則だけが尊敬の対象となることができるのであり、命令となりうるのである。そこで義務に基づいた行為は、心の傾きのあらゆる影響を排除すべきであり、それとともに意志のあらゆる対象をその行為から分離させるべきである。
こうして意志にとってみずからを規定しうるものとして残されているのは、客観的には法則だけであり、主観的にはこの実践的な法則への純粋な尊敬の念だけである。意志には、私のすべての心の傾きを排除して、こうした法則に従おうとする行動原理(※)だけが残されているのである。
(※)この行動原理は、意欲の主観的な原理である。これに対して、客観的な原理は、実践的な法則である。この客観的な原理は、理性が欲求能力を完全に支配しているようなすべての理性的な存在者にとっては、主観的にも実践的な原理として役立つはずのものである。
法則の観念
このように、ある行為に道徳的な価値を与えるのは、その行為によって生みだされると期待される結果ではない。そしてこのような期待される結果に、理性的な存在者の意志を必要としない。
ところが無条件的で最高の善は、この理性的な存在者の意志だけに見出すことができるのである。
だから私たちが道徳的な善を作りだすことができるのは、法則そのものの観念である。この法則の観念は、行為によって期待される結果ではなく、意志を規定する根拠であるかぎり理性的な存在者においてしか生じないものである。
この卓越した善は、法則の観念にしたがって行為する人間の人格そのものに内在するものであるから、行為の結果によって生まれることを期待する必要はないのである(※)。
(※)たしかに尊敬は感情であるかもしれないが、これは理性概念がみずから作りだした感情である。
尊敬するということは、私の感覚能力に与えられる影響の媒介なしに、私の意志が直接に法則に服従するという意識をもつことである。
だから意志が法則によって直接に規定されているという意識が、尊敬なのである。
だから尊敬は法則が、行為する主体に働いた結果として生まれるものではあるが、こうした法則を働かせる原因とみなしてはならない。
そもそも尊敬とは、私の自己愛を排除する一つの価値の観念である。
尊敬の対象は法則だけであり、私たちがそれ自体で必然的なものとして、自らに定める法則だけが尊敬の対象となる。
そのとき私たちは自己愛に問うことなしに、それを法則とみなして服従するのである。
またこの法則は私たちが自らに定めたものであるから、私たちの意志の結果である。
私たちは自分の才能を伸ばすことを実際に義務とみなしているので、豊かな才能を備えた人格に出会うと、自分を鍛練してその人格と同じようなものになろうとする。それが私たちの尊敬を作りだすのである。
いわゆる道徳的な関心の本質は、ただ法則にたいする尊敬のうちにある。
法則に適うこと
意志が絶対かつ無制限に善であるとみなされるためには、期待される結果を考慮にいれることなしに、「道徳的な」法則の観念がその意志を規定していなければならないのだった。
それではその法則はどのようなものでなければならないのだろうか?
わたしはすでに何らかの法則に服従することによって、意志から生まれる可能性のあるすべての衝動を、意志から取りのぞいておいた。
だから意志にまだ残っているのは、行為一般が普遍的に法則に適っているという状態である。
これだけが意志にとっては原理となるべきなのである。言い換えると、わたしは自分の行動原理がまた普遍的な法則となることだけを意欲しうるという形でしか、行動してはならないのである。義務はどのような場合にも、空虚な妄想や、空想的な概念であってはならないから、法則に適って行為すること一般が、意志にとって原理として役立つのであり、原理として役立たねばならない。だから、特定の行為を目指して規定された法則が、意志の根拠となってはならないのである。普通の人間理性ですら、実践的に判断する場合には、これとまったく一致して判断するのであり、この原理をつねに念頭においているのである。
たとえば次のような問いを考えてみよう──わたしは窮地に陥った場合には、初めから守るつもりのない約束をすることは許されるだろうか。この問いが、次の二つの異なる意味をもちうることは、すぐに確認できるだろう。守るつもりのない約束をすることは、抜け目のない行動であるかという問いであり、またそれともそれは義務に適ったことであるかという問いである。これがまず抜け目のない行動であることはよくあることだ。しかしすぐに分かることがある。このような偽りの口実のもとで、わたしが現在陥っている苦境を逃れるだけでは十分ではなく、つねに次のことを配慮しておかねばならない。すなわち、そうした逃れることのできるあらゆる不都合よりも、噓をつくことで、もっと窮地に陥る可能性があるということである。わたしは自分が抜け目がないと思ってはいるものの、この噓がもたらす結果を予測するのはたやすいことではなく、[噓つきだと思われて]信用が失われたならば、[現在の窮地で]避けようと考えている害悪よりも、さらに不利な結果をもたらす可能性がある。だからここでは普遍的な行動原理に基づいてふるまうほうが、すなわち初めから守るつもりがないことは約束しないという習慣を身につけるほうが、はるかに抜け目のない行為ではないだろうか。しかしこうした考察からも、こうした行動原理が、[信用の喪失という]懸念すべき結果[への憂慮]に基づいたものであることが、すぐに明らかになる。ところで義務に基づいて誠実に行為するのと、自分に不利な結果が発生することを憂慮して誠実に行為するのは、まったく違うことである。義務に基づいて誠実に行為する場合には、行為自体の概念が、わたしにとって一つの法則を含む。しかし憂慮して誠実に行為する場合には、そのように行為しないならばどのような結果が生じるかを、まず別の方法で洞察しておかねばならない。というのも、わたしが義務の原理に反する行為をするならば、それは明らかに悪いことである。一方で、抜け目のなさという行動原理にしたがってふるまうのはもちろんより安全なことではあるが、この行動原理を捨てるほうが、わたしに大きな利益をもたらしてくれることも多いものである。虚偽の約束をすることが、義務に適っているかどうかを、きわめて簡潔で、間違いのない形で判断するには、次のように自問してみればよい──「窮地に陥った場合には、噓の約束をして窮地から逃れるべし」というわたしの行動原理が、わたしだけではなく、他人にもあてはまるような普遍的な法則として妥当することに、わたしは自分で満足できるだろうか、と。窮地に陥った人は誰でも、その窮地からほかの方法で逃れることができない場合には、虚偽の約束をすることができると、わたしは自分に言い聞かせることができるだろうかと、自問してみるのである。すると確かに、わたしは自分が噓をつくことを望むことはできるが、噓をつくことが普遍的な法則であることは、どうしても望みえないことを、すぐに理解できるのである。これが普遍的な法則になったならば、そもそも約束というものが成立しなくなるだろう。わたしが自分の将来の行為について[約束を守るつもりがあるという]意志を人々に申し立てたとしても、[さきの行動原理が普遍的なものとなっているために]人々はこうした申し立てをまったく信用しないだろう。あるいは軽率にもそれを信じたとしても、[さきの行動原理に基づいて]同じように噓でもって返事をしてくるだろう。だからこのような申し立てはまったく無駄になってしまうのである。この行動原理は、それが普遍的な法則となったときには、みずからを破壊してしまわざるをえないのである。
わたしの意欲することが道徳的に善であるために何をなさねばならないかという問いに答えるには、あれこれ探りだすような鋭さは不要である。わたしが世の中の事情に疎くて、世間で起こりうる事柄に準備ができていないとしても、わたしは次のように自問すればよいのである──「わたしは、自分の行動原理が普遍的な法則となることを意欲しうるか」と。それを意欲しえない場合には、その行動原理は捨てるべきである。その行動原理のためにわたしに、あるいは他人に不利益が生じるかもしれないからではなく、その行動原理は原理として、普遍的な法則を定めるために通用しえないからである。理性は、普遍的な法則を定めることをそのままで尊敬することをわたしに求める。この尊敬がどのような根拠をもつものであるかは、いまはまだ洞察することができないが(この問題は哲学者が考察する)、次のことだけはすぐに理解できる。これはさまざまな心の傾きによって称賛される事柄のすべての価値よりもさらに高い価値を尊敬するものであること、また実践的な法則にたいする純粋な尊敬に基づいて、わたしが[法則にしたがって]必然的に行為することが義務であること、そして義務はそれ自体で善い意志の条件であり、その価値は他のすべてのものを凌駕するものであるから、他のすべての動因はこの義務に道を譲らねばならないこと、これらのことをただちに理解できるのである。
このようにしてわたしたちは、通常の人間理性の道徳的な認識の原理にまで到達したことになる。もちろん通常の人間理性は、この原理をその普遍的な形式において抽象的に考えているわけではないが、それでもつねに実際に念頭において、[道徳的な]判断を下すための基準として利用しているのである。通常の人間理性はこの原理をいわば〈羅針盤〉のように使いながら、どんな事態が起きても、何が善であり、何が悪であるか、何が義務に適った行為であり、何が義務に反する行為であるかを区別することに熟達していることは、たやすく指摘できる。そのためにわたしたちは通常の人間理性に何か新しいことを教える必要はないのであって、ソクラテスが[アテナイの人々に]やってみせたように、通常の人間理性がすでに自分のもとにもっている原理に注意を促すだけで十分である。だからわたしたちが誠実で善良であるためには何をなすべきか、さらに賢明であり有徳であるためには何をなすべきかを知るには、学問も哲学も不要なのである。どんな人でも、だからごく平凡な人々でも、何をなすべきであるか、何を知るべきであるかという知識を当然ながら弁えていることは、あらかじめ十分に推測できることである。わたしたちが感嘆を禁じえないのは、通常の人間知性にあっても、いかに実践的な判断能力が理論的な判断能力よりもはるかに勝っているかということである。理論的な判断能力においては、通常の人間理性が経験的な法則や感覚能力による知覚から離れてしまうと、まったくわけの分からないことを主張するか、さまざまな自己矛盾に陥ってしまう。少なくとも、不確実さと曖昧さと移り気がいり混じった混沌へと落ち込むのである。しかし実践的な問題においては、通常の知性が実践的な法則から感性的な動機をすべて排除してしまったそのときにこそ、実践的な判断能力はきちんと働き始め、その長所を適切に発揮するようになる。そしてこの通常の知性は、何を正しいとみなすべきかについて、自分の良心やほかの人々の主張に難癖をつけたりするとき、あるいはさまざまな行為の価値について、みずからの基準にしたがって公平に決定しようとするときには、微細な事柄までも見分けることができる。これは重要なことだが、通常の知性がさまざまな行為の価値について判断するときには、哲学者の判断と同じように、正しい判断を下せることが期待できるのである。これにかんしては通常の知性は哲学者の判断よりも確実なほどである。というのは哲学者の利用する原理は、通常の知性の利用する原理と同じであり、しかも哲学者の判断は、事柄の本質にはかかわらない的はずれの問題の考察に惑わされてすぐに混乱してしまい、真っ直ぐな方向から逸れてしまうことがありうるからである。そうだとすると、道徳的な問題については通常の理性判断だけで満足しておくのが望ましいのではないだろうか。哲学を利用するのは、せいぜい道徳の体系をさらに完璧で、理解しやすいものとするため、あるいは道徳のさまざまな規則を利用しやすいように説明し、これについて議論しやすいようにするために限るべきではないだろうか。哲学は実践的な問題にかんして、通常の人間知性を、いま享受している幸福な素朴さから誘いだし、哲学による吟味と自己啓発という新しい道に進ませるべきではないのではないだろうか。
無垢であることは、すばらしいことだ。しかし何よりも困ることは、しっかりと保護されていないと、すぐに誘惑されてしまいがちであることだ。そのために思慮ですら、学問を必要とする(思慮の本質は知識ではなく、ふるまいのうちに示される)。思慮が[実践哲学のような]学問を必要とするのは、学問から何かを学ぶためではなく、学問が定めたものをうけいれられるようにし、それが安定したものとなるようにするためである。理性は、義務の掟をきわめて尊敬すべきものとして人間に提示するのであるが、人間はみずからのうちに、こうした義務のすべての掟に強く逆らうものが存在するのを感じている。これはさまざまな欲望や心の傾きであって、人間は幸福の実現という名のもとで、このような欲望や心の傾きのすべてを満足させたがる。しかし理性は、こうした欲望や心の傾きに、みずから定めた掟を実行することを命じるのであり、さまざまな心の傾きを満足させることを約束せずに、仮借なくふるまう。さまざまな心の傾きは、ごくもっともらしくみえる要求を強くつきつけるのであるが(こうした要求は、掟などでは排除できるものではない)、理性はこうした要求を拒否し、無視する。そこから自然に生まれる弁証論が発生する。この弁証論とは、義務の厳しい法則に逆らってさまざまな詭弁を弄して、こうした法則の妥当性に、少なくともその純粋さと厳格さに疑いを表明し、こうした法則をできるだけ人間の願望と心の傾きに適ったものとしようとし、これによって義務の法則を根本的に堕落させ、そのすべての尊厳を奪おうとする性向なのである。このようなことは、一般の実践的な理性にとっても、どうしても是認することのできないものである。
このように普通の人間理性は、何らかの思弁への要求に駆られてではなく(こうした理性が、たんなる健全な理性であることに満足しているかぎり、思弁への要求が発生するものではない)、実践的な理由に促されて、みずからの領域から歩みでて実践哲学の分野へと歩を進める。それはこの実践哲学の分野で、普通の人間理性がみずからの原理の源泉についての知識と、その原理に基づいた正しい規定をみいだせるようにするためであり、さらに欲望や心の傾きに基づいたさまざまな行動原理に対抗しながら、原理を正しく規定するための知識と、その原理に基づいた正しい規定をみいだせるようにするためである。これによって普通の人間理性は、[義務の法則と欲求や心の傾きの]両方から示される要求によって発生する困惑した事態から脱出することができ、すべての真正な道徳的な原則を奪われる危険を冒さずにすむのである(普通の理性は曖昧なものであるために、この危険に陥りがちなのである)。普通の実践的な理性が教養を積んで無垢な状態を失うと、気づかぬうちに弁証論がそこに発生してくる。この弁証論のために実践的な理性は哲学に助けを求めざるをえなくなる(理論的な理性の使用でも同じ状況が発生する)。だから普通の実践的な理性は、理論的な理性と同じように、わたしたちの理性の完全な〈批判〉のうちでなければ、休息をみいだすことができないのである。
> 第二章 通俗的な道徳哲学から道徳形而上学へと進む道程