悲劇と喜劇は紙一重
と耳にしたことがある。それだけ悲劇というものを演出・創造することは難しいということであり、また悲劇と喜劇というものの関係性が深いということを表しているのだと解釈している。
簡単なあらすじとして、視力が悪い母とそれが遺伝してしまった息子の
モキュメンタリーである。母一人で必死に働き、息子の視力回復の費用を稼ぐ毎日であったが、度重なる失敗と、親しい近隣住民からの盗み、そして殺人(ここが今回の記事も肝である)を犯し……
そこで感じるべきなのは悲劇性なのだが、残念ながら私は先述した殺人のシーンでは面白さの方が勝ってしまった。
なぜかと言えば、ドキュメンタリー調なのにも関わらず、殺人現場が写されることの不可解な印象が強いからであろう。まるでコントのようで、舞台は番組のための舞台のように映ってきてしまう。
またはあまりに理不尽なことを言われるというのもあると思う。(主人公である母が殺人してしまうのではなく、たまたま撃ってしまい、殺してくれと言われるのである。しかしそうせがむ彼こそが息子の費用を盗んだ張本人なのだ。なんとも虫が良すぎる)
こうして何か悲劇感というもの出したいのと、モキュメンタリーの一歩引いた感じが、なんとも言えない馬鹿馬鹿しさを醸し出す。悲劇というのはおそらく頂点にあるようなものであり、狭いのだろう。そこからはみ出れば、喜劇になってしまうのかもしれない。
(喜劇にもならない駄作もあるのだから良いのでは?と思わなくもないが、それはあってはならないだろう。神の創造する世界に、神が知らぬものはあってはならない)
明るいイメージのあるミュージカルを、どこまでも虚無的で夢遊病的に、最後は悲劇を隠さずにするのはよかったと個人的に思う。
以上、夜詩でした。
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映画というものは文学と違い、ある意味ドキュメンタリー(演者はそこに実在する)とフィクションの間にあるものとして扱われるので、そこのバランスが崩れる(崩れて見えてしまう)と、入り込んでいた自分と作品に距離感ができる。こうなると、鑑賞者の中で憐憫の気持ち、悲劇性が(その狭さから)パッと失われる瞬間があるのでしょうね。
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ばるさん、コメントありがとうございます。なるほど、ドキュメンタリーとしての実在性というのは、自分では気づくことなかった観点でした。喜劇自体はどれだけフィクション性に寄っているのかなど、色々考えることができそうです。