マルクス・トゥッリウス・キケロ
マルクス・トゥッリウス・キケロ(紀元前106年頃 - 前43年)は共和政ローマ末期に活躍した古代ローマの政治家。名門の出自ではないが、自らの弁舌の力で頭角を現し、最終的にはカエサルと同じコンシル(執政官)の地位にまでのぼり詰めた。
政治思想的主著は『国家について』、『法律について』、『義務について』など。
キケロの政治思想の特徴は、古代ローマの共和政とストア哲学(ギリシア哲学)を結びつけ、共和政体制の正統化と維持を図ることであった。
共和政ローマの特徴として、強力な陸軍を背景に周辺国家を侵略して巨大な版図を描いたことだが、その際征服した属州を共和政の理念のもとに束ねる一方、各都市には相応の自治を許容した。属州に都市国家(政治的運営単位)としての独立・自治を許しながらも、共和政の理念によって結びつけられた共同体としてのローマこそがキケロの理想とする政治体制であった。
しかしながらカエサルの台頭を背景に独裁化が進むローマに対し、キケロはストア哲学の自然法思想をベースとし、ローマが進むべき道は元首独裁体制下の単一国家ではなく、自然法思想や理性を共通価値とする共和的な国家連合(=リパブリカン)であるべきだと説いた。そのための政治体制として、独裁による専制よりも自然法や道徳に基づいた共和政の必要性を提唱した。
キケロは自身の政治的理想実現のため、具体的な政策として元老院を枢軸とする保守的な立場を取ったことから平民(プレブス)から批判の対象とされ、政治家として失脚を経験している。
彼の晩年はカエサルの暗殺を支持した一方、カエサル暗殺後の政変では一転して彼の義息であるアウグストゥスと協力して政敵・アントニウスの撃破を図った。彼の最後は、アントニウスの放った刺客により首と右腕を切断され、死体を晒されたと伝えられている。
14世紀にルネサンスの知識人、フランチェスコ・ペトラルカによって再発見され、近現代の西洋思想に多大な影響をもたらした。
西洋政治思想史(宇野重規、有斐閣アルマ)