ペシミズムの反転
ここで
ニーチェはペシミズムを考え抜き、アジア的あるいは超アジア的なまなざしをもって最も世界否定的な
ペシミズムを見下ろした。そして
ブッダや
ショーペンハウアーのように「道徳の呪縛と妄想」に捉えられてではなく、善悪の彼岸において「逆の理想の目」を開いたと書いている。
つまり彼らの世界否定的なペシミズムを反転させたのかな?と少し思った。
そういうニーチェは、
悪徳に分類される情動の中に生を高めるものが含まれているのではないか?と示唆している。
>ところで憎悪、嫉妬、所有欲、支配欲などの情動を、生に必要な情動であり、生の全体の構成において基本的で本質的に存在していなければならないものであると主張する者がいて、生を高揚させるためには、こうした情動をさらに高める必要があると主張したならば、──その者は自分の判断をさらに進めるうちに、ある種の船酔いに苦しむことになるだろう。「二十三 新しい心理学の課題」
>キリスト教の聖職者たちは、……(中略)……ヨーロッパ種族を劣悪なものとするためにほかに何をなすべきだったのだろうか? すべての価値評価を転倒させること──これこそが必要だったのである!
> 強き者を挫き、大いなる希望を病ませ、美しきもののうちにある幸福を中傷し、すべての自立したもの、男らしいもの、征服する者、支配しようとする者、「人間」のうちでも最高で、もっとも出来のよい種族にふさわしいすべての本能をねじ曲げて、不確実なもの、良心を痛ませるものとしてしまい、自己破壊にいたらせること、まさに地上的なものと大地の支配へのあらゆる愛を、大地と地上的なものへの憎悪に逆転させること──これこそが教会がみずからの任務としてきたことであり、任務とせざるをえなかったものなのである。ついには教会の評価においては、「世界から隠遁すること」「官能を否定すること」そして「高き人間」という三つのものが一つの感情のうちで溶けあうようになったのである。「六二 宗教の対価」
>キリスト教はエロスの神に毒を飲ませた。──エロスの神はそれで死にはしなかったが、堕落して悪徳になった。「一六八 エロスの神の堕落」
ちなみに、この「五六 悪循環の神」の(註)によると、「
永劫回帰」の思想の萌芽が見られる。
>こうした人間は、かつて存在し、今も存在するものと和解し、耐えていくことを学んだだけでなく、なおそれを、かつてそうであり、今もそうであるように、繰り返し所有したいと欲するのである。しかも自分に向かってだけでなく、この人生のあらゆる劇と芝居に向かって、永遠にわたって飽くことなく、もう一度(ダ・カーポ)と叫びながらである。しかも芝居だけではなく、根本的にこの芝居を必要とし、──この芝居を必要たらしめた者に向かって叫ぶのである。というのも、こうした者は繰り返し自らを必要とし、必要たらしめているからだ。