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ジル・ドゥルーズ


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>ドゥルーズは、数学微分概念を哲学に転用して、差異の哲学を構築し、スコトゥス存在の一義性(これについては、アラン・バディウのドゥルーズ論に詳しい)という視点から、ヒュームスピノザベルクソンらの著作を読み解いた。ただし、アラン・ソーカルからは『知の欺瞞』において数学的概念の用い方のいい加減さを批判された(詳しくはソーカル事件を参照)。また、プルーストカフカマゾッホサドといった近代文学の読解、画家のフランシス・ベーコン論、映画論(『シネマ1, 2』)などの著作も著している。フーコーとの親交は良く知られ、彼の死後、フーコー論を著す。また、『記号と事件』に「追伸」として収められた「管理社会について」では、「フーコーが近い将来、私たちにのしかかってくると考えていた」ものとして、「管理社会」という概念を提示している。この概念は、監視カメラデータベースなど、個人情報の大規模な集積を容易にする電子技術の発達との関連から、規律に代わる、個人の管理(コントロール)のための新たなテクノロジーの発展を予期したものである。
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> 精神科医で哲学者でもあるフェリックス・ガタリとの共著のなかで、戦争機械リゾーム器官なき身体(これは作家、劇作家のアルトーの言葉から発したもの)等の「概念」を次々と創造していった。いまだその概念の可能性のすべては汲み尽くされていないとされる。これらの理論はニーチェ、ベルクソンにその源流を持つ「生成の哲学」とも言うべきもので、日本の思想界にも大きな影響を及ぼした。浅田彰中沢新一などのニューアカデミズムは、彼からインスピレーションを得ている。

>1925年1月18日、パリの第17区で生まれる。ほとんどパリから離れることはなかったという。父の名はルイ、母の名はオデット。1944年、ソルボンヌ大学で哲学をカンギレムイポリットガンディヤックらのもとで学ぶ。1948年、教授資格試験に合格、1957年までリセの教師を務め、同年、ソルボンヌで哲学史講座の助手となる。近世哲学史の読み直しをはかろうとする研究から、哲学者としてのキャリアをスタート。ベルクソン、ニーチェ、スピノザ、ヒューム、カントなどについて、彼独特の視点から論じた研究書を次々に書きあげる。その過程で自身の哲学を練り上げていった。慢性的な飲酒癖があったが、心肺が生来より弱かったため、重度のアルコール中毒に至る程は飲めなかった。晩年は本格的に肺病を患い人工肺で生存していたが、1995年、自宅アパルトマンの窓から投身自殺した。

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