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イマージュの経験 ――バタイユ『先史時代の絵画 ラスコー芸術の誕生』読書ノート②

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> 芸術の誕生

「描く」という行為
ラスコーの洞窟画
絵の具
彩色の材料は地層から取れるものを砕いて水あるいは動物の油に溶かして作られた
最初は指が道具
動物の声あるいはしぐさを真似ることから、ある物体の表面にそのシルエッ卜を描く作業へ導かれたというのはあり得る
粘土の上に指によっていちどきに何本もの指によって窪みとなってつけられた線や、岩の上に絵具に塗れた指によって残された線を解釈変えすることに委ねられる。これらの行為の痕跡は、あちこちの洞窟で、ことにラ・ボーム=ラトロンヌの洞窟で発見されていて、それを先史学者たちはマカロニと名づけている
岩の表面に偶然できた線が、それ自体が解釈の対象となり、出発点の役を果たすことがあり得た
時にはこれらの線が像をなすことがあった
こういった遊びから「描く」が始まった

バタイユはラスコー画像の形成を、狩猟の獲物の多さを祈念するためといった、有用性の原理に基づく理解を退けるところから始める。彼は出来あがった像が後になって祭儀などの目的に利用された可能性は認めるが、描くこと自体は、計算のない遊戯的活動によって始められた、と考える
ばるここら辺は私もそう思う
人間の活動の根本には、合理性に還元されない活動があるというバタイユの考え方が元になっている

面白いのはここら辺
>興味深いのは、岩の上に描かれた線がそれ自身を解釈の対象とし、新たな出発点の役を果たすことがあり得る、とされている点である。偶然出来た線は、描いた人間の反省意識を呼び起こし、その作用によって、線はどこか異なった方向へと差し向けられる。そのような動きが触知される、とバタイユは考える。
ばる偶然にある線が出来上がる
それを見たとき、人間にはそれ自体が解釈の対象となる
反省意識を呼び起こす
反省意識の作用から、最初の線を出発点に、異なった方向へ動かしていく(線を加えるもしくは消すかなど)→この運動が描画を生んでいく


この運動複数の線の中から次第にひとつの形象が出来上がっていく
描線は錯綜しつつ、ある姿を取りはじめる
洞窟画の例では、シカの姿など、動物の姿を取りはじめる

>人間が遊びの中で手に粘土や自然の色素を塗りつけて、洞窟の滑らかな壁にそれを押し当てることで絵画を発見した、ということは、きわめてあり得ることである。このようにしながら、彼は最初の絵画を手にいれた。あるいは、岩を覆う粘土の上に熊の爪が残した痕跡を認めて、おなじ陶土の上に三本の指の先で、時として「マカロニ」になぞらえられる線模様を刻みつけて、その痕跡を模倣しようと試みた。しかし、熊の爪あとを再現しながら、彼はその構図を変化させた。うねりや螺旋や
> 円を描くと、それらは交叉し合い、切断し合い、絡まり合った。ついにある日、彼は、茂みの中からのように、突然動物の頭に似たあるかたちが現れ出るのを見た。やがて彼は、あらゆる種類の獣たちを意識して描き始めた。
マカロニから錯綜する線描へ、そして動物のシルエットの出現へ、というのが、『ラスコー』でまず提示されたイマージュの生成過程である


ここで洞窟にある図像のひとつ《井戸の場面》という図像が問題となる(論文内で確認できる)
《井戸の場面》の壁画映像
風変わりな馬?、鳥、横たわる人(鳥人間?)、バイソンのような動物の絵が描かれている
ちなみに人の足元には杖のようなものが置いてある

>《井戸の場面》に描かれている表象について

洞窟絵画はなぜ人間でなく動物中心なのか?
洞窟絵画の最初の形象は、圧倒的に動物の形象
人間は半獣半人の姿で、あるいは仮面をつけたような容貌で描かれる、なぜ?
理由:人間は自分が自然から出たという記憶を保持していて、自然への郷愁を持ち、人間であることよりも動物であることのほうが優位にあると見なされていたからだ
この時期、人間はまだ自分を動物に対する優位に位置づけてはいなかった。〈神的なものの最初の姿は動物的であった

《井戸の場面》の解釈について、バタイユは『ラスコー』においては保留
2年後の『エロティスム』]においては、前著では個人的な仮説を提出することを断念していたことを認めた上で、〈この有名な絵は、無数の相矛盾し根拠の薄弱な説明を生み出したが、その主題はおそらく殺害と贖罪であろう〉と述べる
4年後の『エロスの涙』において、、〈もう一度言うが、この画は鳥の顔を持った一人の男を表していて、その男はおそらく死んでいるのであり、ともかく、猛り狂っている瀕死の野牛の前に転倒している〉と強調する
一人の狩人が、自分が傷つけ死につつある野獣の前で、その罪を贖うために自分も獣(鳥)に変容しながら、すなわち自然と同一化しながら死のうとしている。だがそのまま死んだきりになるのでなく、この光景は描かれるのであって、描かれることで贖罪が完成される。バタイユはおそらくそのように考えていた

論者はこの《井戸の場面》にある鳥人間の表象には、人間の自然との同一化による死が描かれていると考える
ここから"描くことの根底には死に対する恐怖がある"という考えに繋がっていく


ここからが多分本編