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アープラはコミュニティではなく特性である
思想・哲学・文学・芸術の会はコミュニティというより特性である。
(この思考には急進過激派、教義の曲解が含まれる)

理念と規則、行動規範が定められている。
規則に抵触しないこと、行動規範に従うことを続けると、それは態度になる。
あるいは、アープライアンスを守ろうとする思考が馴染むと、それは自己を操作する思想になる
これは、最終的には信念や特性となって身につくことになるだろう。

アープラの理念は「あつまり、混ざる」ことである。
これには必ずコミュニケーションが必要になり、それを行う場としてコミュニティやツールがある。
しかし、理念を満たすのに、絶対にコミュニティが必要とは限らない。

シソテツの参加基準は、ある程度アープライアンスを守れることにある。
これを逸脱するとban、排斥が行われる
逆に言えば、アープラの参加者とそれ以外を区別するものは、個々人単位で見ると、絶対規則行動規範を守るかどうかだけなのではないか。
理念と態度を共有したものたちが一同に介して会話している、というのがアープラの実態と言える。

となると、DiscordもOCもScrapboxもなくなってしまい、場としてのコミュニティ(会)がなくなったとしても、実は「思想・哲学・文学・芸術の会の会員だ」と言うことは出来そうな気がする。
そして、それらには意味がある気がする。
何もかもがなくなったとして、アープラの行動規範を守り、態度を共有し、理念をともにする二人が出合い、会話したとする。これは、Gather&Mixとして成り立つ。
この時点でここに場が生まれる。
行動規範に従い、Gather&Mixが成り立つ場は、思想・哲学・文学・芸術の会であると言える。
これらのアープライアンス的意識は、もはや個々人に特性として身に付き、残ったものである。
これらがある限り、Gather&Mixは行われ、そのたびに思想・哲学・文学・芸術の会は生まれることになる。
これが、曲解した何度でもよみがえるコミュニティである。

よって、cmanはコミュニティの維持や改革も大事だが、それと同じかそれ以上に「アープラ的特性を持つものを生み出し、拡散させる」ことこそがアープラにとって――ひいては、その会員にとって――重要だと考える。