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『モナドロジー』の2

久住哲
>Et il faut qu'il y ait des substances simples;
『モナドロジー』の1で「単一な実体」という概念が導入され、それが何であるかが語られた。
その時点ではまだ、「そういうものってありますよね」という段階。
ここでは、それが存在しなければならないものでもあると語られている。
>puisqu'il y a des composés;
理由は、複合体があるから。
複合体があるという事実から、それに入っている(entrer)単一な実体もあると、主張されている。
どういうことか?
les composésは〈組み立てられたもの〉である。
ここから2つの道がある。
→組み立てられたものであるからには、構成要素があるはずだ。ゆえに単一な実体はある。
→組み立てられたものであるからには、まとまりがあるはずだ。ゆえに単一な実体はある。
次の文を読むと、そんな難しいことは考えなくていいと思わされる。
ところで、『モナドロジー』の36では、物体は無限に分割できると言われている。
仮に、複合体=物体であると仮定しよう。『理性に基づく自然と恩寵の原理』の1には「合成体すなわち物体」とあるので、複合体=物体と考えて間違いはない。
複合体をどんどん分析していって、単一な実体という最小構成単位を探しても、それは見つからない。
>car le composé n'est autre chose, qu'un amas, ou aggregatum des simples.
そもそも複合体っていうのは、定義上、〈単一なものの寄せ集め〉だよね。
この「amas」という表現が、〈単なる寄せ集め〉といったニュアンスである可能性がある。
参考:岩波文庫『単子論』p149の訳注(五)で紹介されたマソン宛1716年の手紙では……
『モナドロジー』の8で言われているようなことが言われている。
実体がその内に変化を持たなければ事物に変化多様はないということが言われている。
「結局到る處單純な實體しかなく合成體は集まりに過ぎない」と言われている。
じゃあ、この集まりには何の意義があるの?って話になるが、
部分と部分の関係によって生じる類の変化を説明するときには「複合体」である必要がある
例えば、時計や「風車」の仕組みなどは、単一な実体では説明できないだろう。
ということは、複合体があるなら単一なものもあるよね。
疑問
しかし、『モナドロジー』の36あたりを読むかぎり、「どこまで分解しても単一なものを見つけ出せない」という可能性がある。このことをどう考えればいいか。
ひとつ、分解して究極的な最小構成要素にたどり着かなくてもいいじゃん、と考える。とにかく、複合体が単一なものの寄せ集めであるということは分かっているのだから、それは前提にしてしまいましょう、と考える。そして、「複合体を分解したら出てくると期待されるものが単一のもの(des simples)であるだなんて誰が言った?」と返す。すなわち、「どこまで分解しても終わらない」のだったら、des simplesをそういうものとして考えない方がいい。となると、ではdes simplesってどういうものなの?って話になる。
だから3以降の話の展開になる。→『モナドロジー』の3