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『モナドロジー』で出てくるentrerの意味

岩波文庫ではentrerが「入る」と訳されている。→「合成體の中に入る單純な實體」
が、こう訳されてもよく分からないと思う久住哲.icon←あるイメージを持てば理解できる。

entrer
commencer à faire partie de (un group, un ensemble)といった意味がある。
これは「グループに入る」と言われるときの「入る」であり、
〈一員になる〉という意味だ。
être compris dans(含まれた)という意味もある。
これは「料金に入っている」と言われるときの「入る」だ。

entrerは複合体と単一体(モナド)について言われている
『モナドロジー』の63では、entrerとは別なappartenirという言葉で両者の関係が語られる
>モナドに属して、そのモナドを自分のエンテレケイアや魂にしている物体は、エンテレケイアといっしょになって、生物と呼ばれるものを構成する。(『モナドロジー 形而上学叙説』p25)
前提:「生物 vivant」「物体 corps」は「複合体 composé」である
関係
物体=身体(corps)はモナドの所有物である

仮説:モナドは複合体のなかに入って、複合体を所有する
例:あかはなくんの魂が何らかの肉体に入り、その肉体を内側から操る(ということが「入る」ということ)

『理性に基づく自然と恩寵の原理』の3で叙述されたモナドと複合体の関係
モナドはその周囲を物質の塊(=複合体)に取り囲まれている
モナドは文字通り、複合体の中に入っている……とライプニッツは考えているっぽい。
この考えを発展させていくと、いわば「肉体の中に『私=表象主体』が入っていて肉体の操作に一役買っている」というようなイメージを持つことができるだろう。
この発想は、デカルトのコギト・エルゴ・スムの抽象度を下げたような感じかもしれない。

『モナドロジー他二篇』では、「入る」に長めの注が加えられている。
単に「入る」を表わすものではなく、「構成するものとして属している、含まれる」という意味だが、グロックナーは適切に翻訳できないとしている。
注では、例として「(数学的な)点と線」があげられている。線をいくら分割しても点にはならず、点をいくら合わせても線にはならない。点は線の部分ではなく端であり、極限である。
線のなかに点を含めるのは、許容できる語り方にすぎない。
ライプニッツはデ・ボス宛ての書簡で、モナドが一点に集まっているとか空間にひろがっているというのは、人間が心で形作った虚構であって、知性的にしか理解できないものに勝手に形を与えて思い描くことだと書いている。