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「筆者」のいう「超越的」とは何か
> というのもこの二つの例の相違の根拠は、ウィトゲンシュタインの言っているところでは、嘘つきに対する個々人の反応に依存するからであり、それはいま見てきたように全く個別主観的なもので原理的に共通性は存在しないからである。そう考えるとウィトゲンシュタインは「嘘そのものは、二項対立的世界からは隔絶したところで絶対的に悪なのだ」と断言しているだけということになる。したがってウィトゲンシュタインの言う「絶対的」は絶対的というよりもむしろ「超越的」と言ったほうが適切であり「相対的」の方は先述したように「主観的」という言い方のほうがより適当であると思われる。
ここで言われている「超越的」とは何を意味しているのだろう?
価値判断の区別の仕方に対する反論#61bde6417427b70000bed171で書いたように、「筆者」は「をつくことは悪い」という(絶対的)価値判断も「テニスのプレイが悪い」という(相対的)価値判断も、それに関してスルーできるかどうかは結局人によって異なる(= 主観による)と考えている
ここではそうした「主観」に依らないような価値判断を「超越的」と呼びたいらしい。
ただ、「主観」によらずに「嘘つくことは絶対的に悪い」とする「超越的」な価値判断とは結局なんなのだろうか。
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