「私は私である」のからくり
「私は私である」という言葉は日常でよくある。よくあると言っても、会話で使うことはあまりなく、漫画のキャラクターが使っていたり、自分の心の中の
モノローグとして使うことが多いかもしれない。尾崎豊の曲の「僕が僕であるために」などはこれの派生といえるかもしれない。
ところで「私は私である」は
トートロジーである。「A=A」である。つまり、自明であり、何ら認識を拡張することなく、何ら意味を持つ言葉ではない。それではなぜこの無意味な言葉が我々にとって馴染み深いのだろうか。言い換えれば、どうしてよく使われるのだろうか。
結論を言ってしまうと、「私は私である」は論理的には自明であるが、心理的には自明でないということである。この言葉が使われる場面を思い浮かべてみよう。それは心が揺らいでいる時である。もう少し言えば、自分に自信がないとき、自分を見失いそうになっている時、自分の
アイデンティティが揺らいでいる時、このような時に自分を保つためにこの言葉を使うことが多いだろう。つまり、心理的に「私≠私」となっている時である。この揺れから立ち直るために「私は私である」という言葉を使うのである。
心理の世界ではトートロジーすらも揺らぐことがあるというのは興味深いことである。
特定の文化文脈なしには私というものの基体となるものが発生するのだろうか。例えば私が動物であれば捕食者であるので、食物連鎖の中で他の生命を捕食するものとして位置づけられるが、何もしていない私というものを何かしら説明できる状況があっただろうか
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