generated at
「内的」や「内在的」

久住哲
「内的」とか「内在的」という表現は、分かるようで分からない。
ハイデガー『根拠の本質について』におけるライプニッツ「諸々の第一真理」への注を読むかぎりでは、ライプニッツは「内的」の内実を言語化しており、この言語化の仕方は、論理学に基づいていそうである。
注釈が与えられているライプニッツのテキストでは「根拠律」の必要性が語られている。
根拠律=nihil est sine ratione, seu nullum effectum esse obsque causa. (理由なしには何もない、どのような結果も原因がなければない)
>Den nexus bestimmt er als » inesse « des P in S, das » inesse « aber als » idem esse «.
主語の内への述語の「内在」、この「内在」は「同一であること」
『形而上学叙説』§8における「内在」の解説
>真の述語機能というものはすべて、事物の本性のうちになんらかの根拠をもっているものである。そこで、ある命題が自同的でない場合、すなわち述語が主語のうちにはっきりとはふくまれない場合には、述語は主語のうちに潜在的にふくまれているはずである。これを哲学者たちは『内在』と呼び、述語は主語の中にある、と言うのである。(中公クラシックス『モナドロジー 形而上学叙説』p65)
同じセクションの前のところで、「主語」の位置には「個体的実体」が置かれている。