心技体の哲学
「外界に作用するマルチモーダル学習機械」としてのヒトの
身体と、
そうした身体の作用によって外界の知覚を可能にする、無意識や有意識の機能(
識)が、
身体と不可分であることを示している。
学習=言語による推論学習
技術=身体学習による習熟
(手続き記憶など。)
「心技体」のような、
精神
身体学習
の不可分かつ同義的な関係性にある。
有意識的な能動性をつくる
悟性や
知性においても、同様に身体を通じた「理解」「体感」を必要としている。
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トマトを食わずにトマトを解ることはできない。
三密の関係と同じ。
三つの道筋から悟りを開こうとするもの。
心=瞑想や坐禅(意密)
技=真言や念仏(口密)
体=印や儀式(身密)
これはアート的な表現学習や、
スポーツにおける技術習得と同じもの。
こうした心技体=三密が通底しており。
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生活の中の禅って
民藝やな。
>「如来の説法は必ず声文字に籍る。文字の所在は六塵その体なり」としている。
六塵=五感と識による認識の対象なので、ここでの文字は認識されるもの全てを指す。
これは、記号と身体創発を示す。身体に即した文字(概念や意味)には本質があるということ。
何が言いたいかと言うと、
心技体は不可分。能動的に考えること、行動すること、技術を磨くことは、どれを取ってもおなじ三密であり、生活の中における禅の実践である!
scrapboxは、自分の認識世界を言語で記述すると言う意味で、曼荼羅である。
しかし、身体と連動しない知識や精神性はありえないため、良い曼荼羅を描くためには行動や技術の修得が必要になる。
即ち、
身体と精神と技術に即した「心技体」の三密の実践によって曼荼羅を作ろう。というのが本意であり、この曼荼羅としてのscrapbox活動を、
生活の中の禅としている。