雑に読む『観光客の哲学』
【目次】
はじめに
初版への序文
中国語繁体字版への序文
英語版への序文
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第1部 観光客の哲学
第1章 観光
第2章 二次創作
第3章 政治とその外部
第4章 二層構造
第5章 郵便的マルチチュードへ
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第2部 家族の哲学(導入)
第6章 家族
第7章 不気味なもの
第8章 ドストエフスキーの最後の主体
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補遺
第9章 触視的平面について
第10章 郵便的不安について
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文献一覧
索引
はじめに
いいかげんであること、中途半端であること、「ゆるく」考え「ゆるく」つながっていくことを肯定する書
>誤配こそが社会をつくり連帯をつくる。だからぼくたちは積極的に誤配に身を曝さなければならない。p15
第1章 観光
本書の目的
観光客から始まる新しい(他者の)哲学を構想する
2. 人間や社会について、必要性(必然性)からではなく、
不必要性(
偶然性)から考える枠組みを提示したい
3. 「まじめ」と「ふまじめ」の境界を超えたところに新たな知的言説を立ち上げたい
第2章 二次創作
無責任さ
二次創作:原作者に対して何の責任も負わず「ふまじめ」に生み出す
どちらもそれなしには経済が成立しなくなる(好まざるとも二次創作と観光に依存している)
>二十一世紀のポストモダンあるいは再帰的近代の世界においては、二次創作の可能性を織りこむことなしにはだれも原作が作れず、観光客の視線を織りこむことなしにはだれもコミュニティがつくれない。本書の観光客論はこのような射程のなかで構想されている。
第3章 政治とその外部
分裂しているように見える
『一般意志2.0』:『社会契約論』「一般意志」の再解釈が分裂の謎を解く鍵にならないか
>ルソーの「一般意志」の概念は、社会と交わりたくない、他人とも会話したくない、人間がそもそも嫌いな人々、現代風に言えば「ひきこもり」や「コミュ障」の人々のために構想された、社会性の媒介なしに社会を生み出してしまう逆説的な装置として読むべきだという提案である。p89
>人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。言い換えれば、公共性などだれももちたくないのだが、にもかかわらず公共性をもつ。ぼくには、この逆説は、すべての人文学の根底にあるべき、決定的に重要な認識のように思われる。p90-91
>人間は人間が好きではない。人間は社会をつくりたくない。にもかかわらず人間は現実には社会をつくる。なぜか。
>本書は、その謎を解くヒントを、一般意志の再読にではなく、観光客のありかたに見いだそうと試みるものである。それはまた同時に、十九世紀以降の、まじめな公とふまじめな私を対置させる政治思想への異議申し立てでもある。p92
世界は「まちがい」に満ちていると訴えた
永遠平和の設立のための3つの条件
1. 「各国家における市民的体制は共和的でなければならない」(各国の国内体制についての規定)
2. 「国際法は自由な諸国家の連合制度に基礎を置くべきである」(国際体制についての規定)
3. 「世界市民法は普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されねばならない」(社会や個人のありかたに踏み込んでいる)
諸国民がたがいに愛しあい、尊敬しあうべきだといった友愛や感情の問題ではなく、権利の問題
訪問権
国家連合に参加した国の国民は、たがいの国を自由に訪問しあうことができなけれならない
「地球の表面を共同に所有する権利に基づいて、たがいに交際を申し出ることができるといった、すべての人間に属している権利」
この権利の保護なしに永遠平和は存在しない
訪問の権利だけを意味していて、客人として扱われ接待される権利は含まれない
「友好の権利、つまり外国人の権利は、原住民との交流を試みることを可能にする諸条件をこえてまで拡張されはしないのである」
外国人は交際を「試みる」ことはできる。でもその成功は保障されないし、保障されなくてよい
>本文では批判的に紹介しているが、ぼくたちの社会が国境含めさまざまな境界で制御されていること、それそのものがいまや自明性を失っており、境界画定を前提とするものとは別の新しい政治過程を構想する必要があるという点については、ぼくもまた伊藤や鈴木と認識を共有している。ただし、伊藤と鈴木と認識を共有している。ただし、伊藤と鈴木がその境界解体が技術的手段で行われると考えるのに対して、ぼくはそこで人文的な発明が必要だと考える。観光客の哲学はその発明の名称だ。
ここにつながってくるのか!
第4章 二層構造
二層構造のイメージは合っているだろうか?
第5章 郵便的マルチチュードへ
表紙の絵は、もしかして
ペリカン便のイメージだったのか?!
第一部はなんとなく目を通した