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雑に読む『数学的経験の哲学』
ふと手にとって目次を見たら興味が出たので真面目に読んでみるはるひ

一般人にはない前提知識が必要な箇所は飛ばす
理解できなくなってきたら終了

バックグラウンド
鹿児島大学法文学部で哲学を担当
わからなかった
フランス現代思想における科学的認識論であり、科学史と密着な結びつきを重視する
エピステモロジーとは、知識や真理についての研究や理論です。つまり、「何が真実かを知るためにどのように考えるべきか」ということを探求する学問です。chatgpt
>「エピステモロジー (épistémologie)」はフランス語圏では、科学的知の批判検討を意味します。
近藤和敬さんの記事や著書が複数ヒットするなー
まとめると
「知性」「真理」に批判的検討を加えるフランス現代思想・科学哲学の潮流
って感じ?合ってるかわかんないけど。
確かにそういう話をしてるが、知性と真理との接続がまだ見えない

まえがき
知性の目的とは?
昔の神ー知性ー人間
知性の不安定さ(=創造性)にたいする恐怖に蓋をする神ー知性体制
現代の人間ー知性体制
神による安全弁を人間が務めるようになっただけ
>天上界と地上界というマクロコスモスを精神と肉体というミクロコスモスに封じ込めた
かっこいい
神なしの知性」というのは見かけで、神は死んでいない
筆者は「神なしの知性」が知りたい
上記のまま話を進めると「人間」は神のペルソナになってしまうので、新たに用語を決めたい
自由にやるわけにもいかないため、ここでは既知の概念を分析する形をとる
既知の概念を否定せずに振動させ、共立させたいというスタンス
まえがき後半は哲学者の名前がズラズラ出てきたので飛ばす


第一章 問いの設定
真理の歴史
ここも飛ばして「わかりやすい例」から読む
フェルマーの最終定理が長い間解けなかった
真理には歴史が必要
ワイルズの証明では、フェルマーの最終定理以降にできたさまざまな論理が使用された
複数の歴史
フェルマーの最終定理を証明するのとは別の目的に導かれた個別の歴史がそれぞれの論理にある
「数学的直感」には、実はこのような歴史主義的な見方がある
見出しの「問題が解けないとはどういうことか」はなんだったんだろ
真理とは?
飛ばした序盤はこの例を読むことでだいたい理解できてるっぽい

絶対主義と相対主義の対立
(真理に関する)絶対主義と相対主義の対立
真理の形式と内容
真理の形式=あらゆる真理の条件
フレーゲは、あらゆる真の文は条件としてそれを指さなければならない「真理値」があるとした
青リンクはるひ
これはプラトニズムと違って中身に言及がない、形式的な概念
イデア論は見たことあるぞはるひ
真理の内容=具体的な真理の内容
相対主義的真理を主張するとき、内容に着目することが多い
例:フーコー「狂気の歴史」では、狂気という概念がさす具体的内容の変遷をたどっている
しかし、“相対主義そのものの見方自体を主張するという実践そのものが、正しさへの欲求が含んでいる以上、完全に真なるものと手を切ることはできない”
そうか?はるひ
英訳したらitselfまみれ
重要:「真理は変化する(内容)」と「真理値がある(形式)」とは矛盾しない
真理値がひとつであるとしても真理があらかじめ存在するわけではなく、変更・修正が可能
真理の内容に変更があっても真理の形式の相対性が導かれるとも限らない
このあたりで「共立」のスタンスが発動してくる
真理の形式と内容いずれの見方も矛盾なく共立させよう
絶対主義と相対主義とで議論が噛み合ってないことが多い
真理の形式と内容の重視度で差があるというのは問題
>真理という語のもつ一性と多性、静性と動性についてどのように綜合的な視点を持つことができるか?
形式の中の形式、形式の中の内容、内容の中の形式、内容の中の内容という2×2で考える
対立概念だからこうしないとMECEにならない的なこと言ってるがよくわからんはるひ
解説も理解できない
興味薄いのでこれは飲み込むとする
読み進めれば輪郭もわかってきそう
ただし「カテゴリー的思考の限界」がある
たとえば、フェルマーの歴史のような真理の過程的側面に言及できてない
マスの間の微妙なニュアンスこそが肝
なぜ?はるひ


難読本すぎず面白いはるひ
難読本だったはるひ

第二章 概念、直感、内容X
概念とは何か
p48全部理解できない
カントによる規定
直感と概念の対立は純粋理性批判が定義したことなのか
用語を理解しないと用語を(この本で深く)理解するための前提が理解できない問題
表象の樹形図の中に概念がある
表象>概念
表象=生の絶対的内在性
概念=表象の再認を可能にし、同じ・違うという腑分けをするもの
例:単位という概念は、何かが数えられているとき、それが数えられているということを可能にする
表象を豊かなものにしている
それまでの主語/述語、あるいは文における「項」(アリストテレス)にとってかわるもの
項には真も偽もない
判断=文=主語述語からなる命題を形成した場合のみ真偽が問題になる
概念も項と同じく複合・分析によって初めて判断を形成するが、項と違うのは、それ自体に自存性があるということ。その意味で革新的
概念の内包と外延
表彰の中に概念が位置付けられている→概念には内包と外延がある
分析的判断
主語Aと述語Bにおいて、BがAの観察によって導き出される時
綜合的判断
BがAの外にある時
知覚や感覚といったなにかXがこの結合に必要となる
経験Xに概念Aを重ねることでア・ポステリオリな綜合判断が形成される
では、数学的綜合判断は?
こうでなければならない、という必然性の意識がある
これは経験という個別的なものの表象では説明できない(なぜ?)
カントに言わせれば数式の命題はア・プリオリな綜合判断である
概念だけではなく、直感の助けを借りてのみ数学を行うことができる
ここでのXには時間形式、空間形式があるとした
カントの上の議論は自明なことが少なくて若干意味不明だった。が、もっとボルツァーノ以降が詰めてくれてるようだ
昔の哲学ってだいたいこんな感じ?
時間形式などという直感は数学の論証には不可欠ではないという反論
数学的に証明すれば終了
集合論的な概念の解釈
このあたりは理解できないが、興味はある
>概念把握が要素の配置が関係ないとみなし、それゆえ置換が本質的な変更をもたらさないような集まりを集合と呼ぶ
>その要素が種Aの個物としてみなされるような集合を多と呼ぶ
????
「直感と概念の置換=距離を否定するのがカント版概念の誤りだ」などとあるがよくわからん。
カントはある程度概念に関する不変性を示したが、ボルツァーノは置換におけるさらなる不変性という観点による「集合」を「概念」にとって変えようとした。
わかりやすいだろう、と出してくる例が流石に意味不明
加算無限と非可算無限のあいだの差異といった問題がボルツァーノの時代にはあったのでそれが影響してたのかも。有限では機能していた直感でも非ユークリッド幾何学の公理系や無理数を理解することができない。カントはニュートン力学に関心があったため時空の話を重視した?
要は直感を否定したのが新しかった。より抽象的なことを考えられるようになった。ということか

内容Xとは
=「表象を次々と算出したはずの作用」
???
指折り数えるという直感的行為が概念化に役立った歴史がある。しかしひとたび概念化がなされてしまえば戻る必要はなくなる。新しい概念が新しい「表彰を次々と算出したはずの作用」になる。
(やはりカントのアプリオリな直感とは指折り数えるようなことをいってたのか)
つまりここまで出てきた「X」は歴史的制約を受けるものである。

結論
概念の措定とは歴史的行為である。
概念の措定を要求する内容Xとは歴史的に条件づけられた創造性の要求である。
もの凄い飛躍に感じるが8割型理解してないのでまあ…
早くも全然理解できなくなってきた

第三章 概念の経験としての「数学的経験」
定義の観点からみた概念
概念は歴史を含むので、経験を再組織化するのみならず、リアルワールドで適用されることにより概念自身も再組織化をとおして経験される
前述のものを適用することで、伝統的イメージを壊すことになる
伝統的な概念の定義の説明
名辞(概念)の内包を明示したり、あるいは外延を確定する手続き
外延
名辞が適用される対象の範囲
内包
名辞が適用される対象の共通性質
「比網羅的な内包的定義」
従来のように二等辺三角形を「二辺の長さが互いに等しい三角形」として定義すると、非ユークリッド幾何学の語彙と重なって規定がうまくいかなくなる
つまり概念設定によって異なる概念世界が展開される。概念設定は慎重にするか、未規定性や流動性を受け入れるかしかない
未規定な部分があり、外延はあとから浮かび上がってくる
まず「ある直線に対して垂直に引かれた二本の異なる直線」と定義される概念αがあるとして、
「平行である」という述語と肯定的に結びつく場合はユークリッド幾何学
「並行である」という述語と否定的に結びつく場合は非ユークリッド幾何学
といった感じで、どういう枠組みにおける定義かは規定できない。
>概念αを類として、そのなかにその概念αによって規定される二直線が平行な種と平行でない種があるのではない。概念αが平行であるという述語概念と全称的に結びつく世界と、概念αが平行であるという述語概念と必ずしも結びつかない世界の両方がそれぞれにおいて共立し、それぞれの概念世界においては概念αが異なる外延を指示しているのである。
概念世界によって外延の指示する内容は変わり、ただし内包は充分に規定されている。
現代数学では一般的なこと
日常の言語においても、内包は明示的に定義されてもその意味内容が他の語彙との結びつきによって大きく変化することがあるのは常識。語彙が網羅的に定義されていることのほうが稀(学問的認識とそのまま同一視はできないが)。
これがいい例えになってるはるひ
「重要なのはこうした未規定性を引き受け、流動的なままにものの本性をとらえることではないか」

経験と真理の対応説
比網羅的な内包的定義を許容するということは、存在の同一性を前提しないということを含意する
もうわからん
つまり「経験」も変わってくる
経験は知覚だけでなく、概念ふくめて双方の産物である
あ、ここは何が言いたいのかさっぱりはるひ

知の第三世界説
p88
以降は来月とかに読むはるひ