左右手
「まで」と読む
> これについて、『石山寺縁起絵巻』(二)に次の話があります。『万葉集』に訓を付けることを命ぜられた源順(912-983)が、石山寺へ参詣する道すがらこの「左右」の訓を思案していたところ、近江国の大津の浜で、馬方が負わせた荷を付けなおすのに、「まてより付けよ」と言ったのを聞いて、左右の両手をマテ(あるいはマデ)と言うのだと悟ったというのです。もしこの話が事実であったとしたら、平安時代にマテという語は、貴族たちの知らない俗語だったのでしょうか。両手の意味の例として、『日本国語大辞典』には、西行の歌が挙げてありますが、『万葉集』の時代からあった言葉だったことになります。
>康保の頃、広幡の御息所の申させ給たるによるとて、源順勅をうけたまはりて万葉集をやはらげて点し侍けるに、よみとかれぬ所々おほくて、当寺(石山寺)にいのり申さむとてまいりにけり。「左右」といふもじのよみをさとらずして、下向の道すがら、あむじもてゆく程に大津の浦にて物おほせたる馬に行あひたりけるが、口付のおきな、左右の手とておほせたる物をしなをすとて、をのががどちまでよりといふことをいひけるに、はじめてこの心をさとり侍たるとぞ。
>『万葉集』が編集されて200年経った平安中期、漢字ばかりで書かれた『万葉集』を読める人はほとんどいなくなっていた。天暦五年(951)村上天皇の勅命で、「梨壺の五人」といわれる人たちに訓読するようにといわれた。そのひとり源順は、歌中の「左右」という文字がどうしても読めなかった。その苦境も仏が頼り、石山寺に参詣したという。たちどころに観音さまが教えてくれたわけではない。帰り道、大津の浜辺で、荷車の馬主が荷物が落ちそうになっているのにのんびり片手で荷を押える馬方に向かって、「何してんのや!真手(左右の手・両手)でやらんか!」、どなった。「そうか!そうだ!」。左右を「まで」と読めた。