創作人物の名前について by 夢野久作が面白い
何年発表の文章なんだろう?青空文庫では追いきれない
>ところでその名前の選み方であるが、これがナカナカ容易でない。性来カンの悪い私などはこの名前の選定について特別に悩まされるので、何の苦もない名前を付けているらしい他人の創作なぞを読んでいる中に、つくづく自分の無器用さに愛想を尽かす事さえある。
> 極端に神経過敏になって来ると、その創作の出来不出来は、その作中に活躍する人物の名前の選み方一つに在ると云ってもいい。いい名前が出来ると思わず筆が進んで筋が面白く変化して来る。「金色夜叉」の妙味は貫一、お宮の名前の対照に在る。「不如帰(ほととぎす)」の生命は川島武夫と片岡浪子の八字によって永遠に生きているのじゃないかといったような気持になって来るのだから容易でない。
主人公間貫一 (はざまかんいち) と許婚 (いいなずけ) の鴫沢宮 (しぎさわみや) にはどういう対照があるんだろう?
いい名前が出来ると〜の下りは
西尾維新さんとかめっちゃ頷きそう(勝手なイメージ)
西尾維新作品の登場人物の名前は独特で頭に残るなぁ
というか西尾維新の本を読んで
夢野久作みを感じた
自分が知らないだけで、最近の文学、ラノベでも過去の名著のパロディみたいなのが沢山あって、そう言うのを知ってて読むと面白いんだろうなぁと感じた
探偵小説が全盛期だったのかな?
> もちろん私は、それ程の苦心をしたおぼえはない。今の世の中では電話帳というものや、紳士録というものがあるから東京市中をウロウロする必要ナンカないのであるが、それでも電話帳や紳士録に乗っている名前では何だかインテリやブルジョアじみているような気がして満足出来ない場合が屡々しばしばある。
紳士録とは、「紳士録(しんしろく)とは、官僚、大企業の役員、芸術家など著名人のうち、存命で活躍している人物の情報を掲載した本を指す。 生年月日と出身地、最終学歴はもちろん、刊行時点での居住地、場合によっては家族情報や趣味などの個人情報が記されていることもある。 「Who's Who」や「人名年鑑」とされていることもある。」のことらしい
こういう名前だと「インテリやブルジョアじみている」と感じるのだろうか?
岩倉具Xさんはパンチあるなぁw
主人公が豊臣秀子だと「これはなんかの風刺なのか?」みたいになりそう
> 又は女の名前のために博物字典を開くとジャガイモが出て来たりポンカンが出て来たり、バクテリヤという片仮名が並んでいたりする。何々ジャガ子、ポン子、バク子なんていうのはないのでウンザリしている中うちに一時間や二時間は飛んでしまう。
楽しそう...
> 大正七年頃であったか、何とかいう飛行将校が夫婦相談の上で、今度生れる子を男の児ときめてナポレオンという名前にきめているところへ女の子が生まれたというのでナポ子と附けたという話が新聞へ出ていたが、吾が児なら構わないかも知れないが、小説は売り物だからそうはいかない。読者を馬鹿にしているといって憤(おこ)られてしまうにきまっている。
ひどい...。ナポ子ちゃん...
> のみならず小説の中の名前の附け方には色々な条件があって、束縛され方が普通の場合よりも甚しい。特に探偵小説の場合に於て、そうした傾向が甚しいように思われる。
> 与謝野晶子の長女・八峰(やつね)、次女・七瀬(ななせ)の名前は森鴎外の歌からとったもの。
>1907年(明治40年)3月、晶子は女の双生児を出産。命名を頼まれた森鷗外はその名(八峰・七瀬)を織り込んだ歌「聟(むこ)きませ一人は山の八峰(やつお)こえ一人は川の七瀬(ななせ)わたりて 」を贈っている(七瀬はのちに有島武郎の甥と、八峰は孝橋謙二と結婚)。
> 四男・アウギュストはフランスの彫刻家・オーギュスト・ロダンの名をもらったもの、五女・エレンヌは誰の名をちったか判りませんが、欧州旅行の影響があると思います。
> 与謝野夫妻は森鴎外と親密な付き合いをしており、また夫・寛(鉄幹)から欧州に来るよう促されると、女の一人旅でシベリア鉄道にのって欧州に行き、ロダンや詩人のアンリ・ドゥ・レニエと親しくなっています。
> 四男・アウギュストは晶子が渡欧中に妊娠しており、ロダンと会った記念に命名したものです。
> 与謝野晶子はものにこだわらない性格だったといいますので、親しくなった人に関連する名を子供に付けたのでしょう。彼女は男性同等以上の社会活動して、自由人とし世間並みの華麗主婦の域を超えていたようですし。
> しかし、アウギュストやエレンヌ当人は変な名前を付けられて困り、後に改名していますが。
森鴎外氏の影響力...
> 探偵小説の中では、昔風に悪人と善人とを区別しなければならない場合が非常に多い。ズット昔(今でも歌舞伎なぞ)では悪人の人相が悪く、名前までも毒々しいが、この頃では……特に探偵小説の中では……人相の柔和な、美しい人物が思いもかけぬ大悪党だったり、札附の前科者が善人であったりしなければならない事が多いのだから、そんな感じの名前を最初から考えておく必要がある。衷心から気心の優しそうな名前の人間が、最後に手錠をかけられるような事を書くと、前にも述べたような理由で読者は何となく欺(あざ)むかれたような不満を感ずる虞(おそれ)があるのだからそのヤヤコシイ事一通りでない。
やはり明治の時代でも意外性が大事だったんですねぇ
歌舞伎の悪人の名前は毒々しいのか?
> 第二の条件は、その人物の風采が苗字だけ、もしくは名前だけでもスラリと眼に浮ぶような名前を附けなければ損である。もちろんそのうらを行って現実性を強める方法もないではないが、普通の場合、岩山銅蔵という美少年だの、青柳美代吉なんという醜怪な兇漢なぞは落第である。トラ子と花子と二人並べたら花子の方が美人にきまっているし、松子と清子なら清子の方が病身にきまっている。大山壮太郎が小男で、小川一平が雲突く大男と書いたら読者はちょっと首をひねるであろう。
確かにそのとおりな気もする。今だと、逆に名前負けしているとしてコンプレックスを持ってたりする場合多いかも
> 第三の条件は読者に記憶され易いことである。これは特にむずかしい条件であるが、創作人物の名前を選むについては第一の条件と共に最重要な考慮を払わなければならぬ問題である。
> ……といっても理屈は別にむずかしい事ではない。
> 早い話が田中とか、山本とか、林、中村、又は長兵衛、芳夫、太郎、次郎、三郎といったようなアリフレた名前をヤタラに組合わせて並べて行くと、読者はキット途中で作中の人物を混線さしてしまう。筋からハグラかされてアクビを出すか、本を投出すかするところがあるのだから、こんなのは先ず遠慮した方が賢明である。
海外の小説で似たような名前が沢山出てきて頭が混乱したことある(
『百年の孤独』)
あれはアリフれた名前ではない(と思う)が
現代の作品でもフツーの名字に変な名前をつけてインパクトをもたせることがある
> そうかといって猫舌とか、鰐口とか、黒手とか赤足とかいったような突飛(とっぴ)な名前を持出すと、その一つでも全篇の実感をワヤにする虞(おそれ)がある。又は長谷倉とか東海林とかいったような稀有の実在名を持出すと振仮名の間違いという恐ろしい危険に陥り易いし、わざとらしい感じが必ず附き纏うのだから万止むを得ない限り使わない方が無難と考えられる。
> 第四の条件は実在の名前を……たとえば電話帳などに多く出て来る名前をなるだけ使いたくない事である。
> 前にも述べた通り、実在しない突飛な名前を使うと、読者の記憶へは残り易い代りに、この全篇の迫真性を極度に薄める虞(おそ)れが非常に大きい。馬琴などは石亀屋地団太だの鼠川嘉治郎なんていうのを平気で使っているが、今頃使ったら物笑いの程であろう。
> しかし一方に実在の名前をなるたけ使おうとすると困る問題が一つ出て来る。
> これも前述の通り探偵小説では善人と悪人とをハッキリ区別しなければならない場合が非常に多いのだから、善人の場合は差支えないが、悪人の名前にウッカリ実在の名前を使うと意外な結果を招き易い。
現実ではほぼ例のない名前で
夜神月を設定したのに、人気が出てかえって月(ライト)と名付ける人が増えた、という噂を耳にした
真偽は調べていない
> これは架空の話だから御差し合いの方には真平(まっぴら)御免下さいであるが、田中という人物が唾棄すべき悪党であったり、林という美人が自動車に轢(ひ)き潰されたり、中村という先生が八ツ切りにされたりしたら日本中の田中氏、林氏、中村氏は、作者に対して報復しようのない怨恨を抱き、不浄を感じ、嫌悪の情を以て本を投出す虞(おそれ)がある。それ程でなくとも作者として一種の変テコな失礼を四方八方に働らいたような良心的な苛責を感ずる事になるのだからツイ遠慮したくなるのである。
佐藤というありふれた名字を使ってアレなことをする作品(
リアル鬼ごっこ)あったな
こういうところで
曲亭馬琴の名前が出てくると、明治~大正はやはり江戸と地続きなんだなあと思ってジンと来る(?)
ねずみかわかじろう、好きすぎる
> こうして種々な条件を附けて来ると、創作人物の名前なるものは、いい加減、神経衰弱のタネになるものである。だから私などは今日まで気に入った名前ばかりで一篇を創作した場合は一度もないので、十中八九は、いい加減なところで辛抱して来た場合が非常に多い。
> 無責任なようではあるが、そんな風に考えて徹底的に神経衰弱が静まるところまで満足し得る名前を発見しようとしていたら、締切りに間に合わない場合が多いのだから止むを得ない。
こういう風に書いているのを見ると、気に入った名前で創作はできていたようですね
> 更にモウ一つ厄介なことに作者がそういった感じをもって選名をしても、読者の方でそう感じない場合を考慮しなければならないという問題があるが、しかしこれはチョット見当が附かないから困る。
> 私なぞに云わせると栗島スミ子という名前は中年のインテリ婦人の名前がするし、江川蘭子はスレッ枯らしの有閑令嬢らしい感じがするのであるが、しかし万人が万人、そう感ずるかどうかは疑問である。
たしかにそんな感じがするかも
江川蘭子を見て脳内で「江戸川コナン!探偵さ!」が出てきて「いや、あれは江戸川だし、毛利蘭だし」と混乱したw
> いずれにしても創作人物の名前が、神経衰弱のタネになるのは私一人ではないらしい。
> しかもウッカリすると、作者の個性だか趣味だかが一定しているために、全然別の創作の中の同じような性格の人物の名前が、似通ったようなのがチョイチョイ出て来る事もあるのだから油断がならない。
SAO(ライトノベル)の作者さんは女の子のキャラがR行ばっかついているとかそういう話あったな
自分の好きなWeb小説の人も名前に拘りまくって同じ名前ばっかり使っていたな
> しかし又一方にそうした傾向を利用した、作者の趣味とピッタリした人物を中心にして色々な物語を書いて行くのはたしかに賢明な方法である。
> ホームス、ルパン、ミッキーマウス、ノラクロ何とかいったような名前は、要するに創作人物の名前の持つ魅力を百パーセントに利用したもので、そんなダシの利く名前を発見した人の喜びは考えるさえ嬉しくてならない。
> まだまだ創作人物の名前については重要な事を沢山に書残しているようであるが、さてこうして書き初めてみるとナカナカ重大な問題らしく、あとから――書く事がイクラでも出て来るのに驚いている。
> まことに辻褄の合わない事ばかり並べ立てたようであるが、今までの小説評に、名前の附け方の評なぞ出ないようである。しかも考えようによっては、創作人物の名前の附け方というものは、たしかに一つの立派な芸術のように思われるから、ちょっとその口開きまでにコンナ愚文を発表してみた。
「ダシの利く名前」というフレーズ、いいな
色々考えてるんだなぁという感想(ラノベ勢)
ラノベだと「主要キャラは自分が好きな名前(単語や響き)」、それ以外はテキトーが多い気がする(人次第?)
こういうの使ったりする