共有地の悲劇
次の条件がいずれも満たされるとき、コモンズの悲劇が起こりうる
> 2.共有地の資源が希少資源で枯渇すると尽くされてしまう
> コモンズの悲劇では資源の過大利用が問題になるのに対し、アンチコモンズの悲劇では、資源の過少利用が社会に不利益をもたらすということで問題となる。
面白い論文がありました
>多くのコモンズ研究は,人々の過剰利用によりコモンズが荒廃するリスクがあるという想定のもと,過剰利用を防ぐ制度的な仕組みを解明してきた.しかし,現代日本のコモンズに目を転じると,近代化や少子高齢化といった社会変動の結果,従来のコモンズ研究が想定しない状況が生じてきた.本研究の目的は,既存の研究を検討することで,このような新しいコモンズ問題を解明する糸口を探ることである.
デジタル技術における共有地の悲劇
これって共有地の悲劇か?
図だけ引用すると変な感じになってしまったかも
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> オープンソースソフトウェアは長らく「共有資源の悲劇」と呼ばれる問題に苦しんできました。大小さまざまな組織が毎日OSSを利用していますが、多くのプロジェクトが必要な時間やリソース、注目を得ることに苦しんでいます。
> これは資源配分の問題であり、一緒に解決できる可能性があります。私たちは、私たち全員が依存している重要なプロジェクトを、それらにサポートを提供できる組織と結びつける方法が必要です。
> 専門家からの専門的な支援、助成金、またはクラウドクレジットなど、さまざまな形でサポートが提供されることを認識しています。私たちは、アップストリームのメンテナーと協力して、どのような助けやサポートが必要かを理解し、その後、この助けを利用可能にするためのスケーラブルなプロセスを開発するつもりです。
解釈
オープンソースソフトウェア開発者自身(のリソース)が事実上「共有地の資源」というわけか
別の言い方をすると「意思を持った資源」
開発者自身は意思を持っているので自分という資源の消耗の仕方をある程度コントロールできる
そういう意味で、純粋な共有地の悲劇よりはマシなのであろう
「メンテをしてるのに見返りがない!」と言われがちだけど、誰かがメンテを強制しているわけではなく開発者が自発的に時間を使っているので牧草地が食い荒らされるのに例えるのはミスリードな気がしている
オープンソースソフトウェア自体に注目した場合
1. オープンアクセスである
2. しかし、無限にコピーできるので枯渇しない
ので条件を満たさない
オープンソースソフトウェアの開発者の時間に注目した場合
2. 希少な資源であり消費される
1. しかし、オープンアクセスではない、本人がコントロール権限を独占している
ので条件を満たさない
この二つの視点をぼんやりと混ぜてしまってるように思う
なるほど