年齢と能力
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とあるページを読んでいてその可能性に気がついたのですが、不快に思われたら申し訳ありません。単に知的好奇心を探究させてしまっただけです)
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単純な疑問として自分よりも年齢の上の人(明らかに上の人でもよい)が自分よりすごい実績を上げているのを観測したら、こういう感情は起きないのだろうか。
もし起きないのだとしたら、「人間は年齢や使った時間と共に、等しく能力を向上させ、向上した能力は等しく結果をもたらす」という世界認識があるのだろうか。
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年齢が上だと、その人への認識が“偉人カテゴリ”に分類されていくところはありますね。アレクサンダー大王とかPFドラッカーとか久石譲とかの。
だからこう、「大橋さん」とかでも、半分そっちの感覚があって、同じ時代を生きているのに、生身感は半分くらいしかない。
これがjさんのブログがブレイクしていったり、岡野さんの本が売れていくと、結構な焦り感がある。
自分が置いていかれる感覚というの?
「クラスの同窓会に出たら、俺以外みんな結婚してた」とか、そんな感じだろうか(行ったことないけど。同窓会)
「それぞれに合った住環境を見つけて、生存していけるようになったらいいですね」じゃなくて、ゼロサムのアテンションを奪い合うような、「競争」のイメージも持って生きてるかもしれないです。
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今ちょっと思いつきましたが、「明日(未来)の自分に対する期待過剰」理論ってのがあるじゃないですか。タスク管理界隈に。「先延ばし」なんかの文脈で。あれ、関係してるんじゃないですかね。
歳上の人には、曖昧な未来を投影できるけど、年下の人を見ると、現実を突きつけられる的な。
年上の人の未来は「まだ持てていない」といえるけれど、同年代・年下の人の実績(もっと適当な言い方がありそう)は、自分が実績を積んでいなければもう持つことができない
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少し広げて「持ち得ないものへの執着」と考えると、自分がドブに捨ててしまったのかもしれない過去の時間に対する後悔というのも大きい感じがしますね。
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ずっと何かを感じながら生きてきたわけだから、自分が憧れる人は得ていなくて自分は得た何かが必ずあるはずだけど、それを探すという選択肢を後悔が覆い隠している? 既に得ているかもしれないものに価値を見出しにくいというか。
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「その歳になって」という言い回しがそこかしこで使われることからして、年齢を基準にした能力的な概念を常に意識させられているという実感はありますね。
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同年代または下の世代に対するコンプレックスは、同じ年月またはそれより長く生きたことで得ているはずの経験を生かせていない無能感と言えるか。
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ご指摘の通り、時間と比例して成長するものという意識が強く、更に「そうなっていくべき」という強迫観念から、誰しも同じように成長する…というか、「遅れを取ってはならない」という認識が生まれるかと思います。
時間に比例して成長しなければならない、みたいな観念あります
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年上の方には起きにくいですね。
「同じ年になるころにはすごい実績を打ち立てられるかも」という可能性があるからでしょう。
ただし、その人が今の自分の年齢で「すごい実績」を打ち立てていたのを知るとがっくり来そうです
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あと、「自分よりもすごい実績」とは何だろうか。
むしろ、他人の実績を、常に自分の実績を物足しにして測っているということだろうか。
その場合、当人がものすごい業績を上げていると自負している場合どうなるのだろうか。
「自分がすごいと感じる実績」と「自分よりもすごい実績」の差異が気になる
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自分も囚われていたクチなので(一応過去形)自己分析を書くならば、前提として自己否定の感情がある場合には目に入るもの全部が「自分より」という解釈になっていたなと思います。
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相手が自分より絶対的にすごくすごい"のではなく"、自分が自分を絶対的に劣っていると見なしていた感覚。
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とはいえ自分はこれもできるじゃないか、と頑張って自分を慰めるわけですが、根本的に無意識下で自分を否定したがっているので、自分の実績を正しく評価することが難しい感じがあります。
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その「無意識下で自分を否定したがっている」というのは、なるほどなと思いました。たぶん、たぶんあらゆる事象がそのための理由として採用されてしまうのでしょうね。
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そうですね。年齢を基準にするということとコンプレックスを抱くこととは別の前提によって成り立っていることだと思いますが、それらが合わさった時に、年齢をうっかり自己否定に繋げてしまうことにもなるというような気がします。
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なので、「年齢を気にはするが、自分の無能さを嘆いて狂うわけではない」という立ち位置も当然あるかと思います。
倉下の場合だと、「こんなのはとても俺じゃー書けねぇ〜な」と思うことはあるが、別段「ぐぬぬ」という気持ちは湧いてこない。
自分は自分、他人は他人ということだが、それはバスケットボールの得点とサッカーの得点を比較しても詮無いことだから、という感覚。
それぞれ違うゲームをやっている感覚
他人と比べることはよくないことだ、と言われるがよくないというか単に同じ天秤に載せるものではない、という感じがする(バスケとサッカー、cmとkg、レシピとコースメニュー)。
あるいは比べてしまうことで、「同じゲーム」が始まってしまう、というデメリットがあるのかもしれない。
「自分のゲーム」から目を背けてしまう。
「自分のゲーム」が何なのかわからないから、他の人のゲームに仮託してしまう。
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劣等感があるときは全ての人間をひとつの数直線上に乗せて考えてしまう気がしますね。
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といっても、無意識に「数直線上に乗せるものとしてイメージできる対象」を選択しているのであって、全く別の尺度で生きている人のことは視界から排除していたりします。わざわざ自分がいる数直線上の前方に置ける人間だけを選んで見てしまう。
よくわかります
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私だけかもしれませんが、n本の数直線を使い分ける(何なら新しい数直線を持ち出す)こともあったりします
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もし相手の実績が、自分も目指したいものであれば、「どうやったら自分もその実績に至れるだろうか」と考えるのが建設的である。
別に同じ年齢で実績を有む必要はないのではないか。
もしその必要があると感じるならば、その実績はなにゆえに欲されているのだろうか。
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人間の心理(というか認知)として、「比較しない」というのはおそらく無理(悟りを開くしかない)。情報というのは差異であり、脳は情報を求めるものだから。
人はたぶん常に何かを比較している。
だとしたら、その比較の対象をズラすしかないのだろう。
たとえば
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も、つい自分の本のAmazonランキングが気になってしまう。一喜一憂してもしかたがないが、とは言え上がる→売れる→重版かかる→収入発生、という実利もあるので完全否定はしがたい。
ランキングは、それ自体が一つのゲームなのだと言えるだろう。