カテゴリーの窮屈さ
具体的なカテゴリーを設定して、その箱の中で議論を深めることは素晴らしいことだと思うし、その意味で別段上記二つのプロジェクトを否定的に捉えているわけではない。ただ、新しく始めたこのプロジェクトは、先ほどのような窮屈さがほとんど感じられない。なぜかと言えば、このプロジェクトには知的生産の技術についてもタスク管理についても自由に言及できるからである。
そのことから、逆に私の関心構造が見えてくる。
私は、知的生産の技術の為に知的生産について考えているわけではないしタスク管理のためにタスク管理について考えているわけでもない。私の興味の全体があり、その一分野に「知的生産の技術」や「タスク管理」と呼べるものがある、というのに過ぎないのだ。
私の興味構造
知的生産の技術
hogehoge A
タスク管理
hogehoge B
アウトライナーを使っているとわかるが、上記のような位置づけはあくまで
仮固定である。実際こうした構造はリゾーム的であり、トピックはさまざまな接続を持っている。つまり、視点を変えればいくらでも越境できる。しかし、先にカテゴリーを決めてしまうと(あるいは決めすぎてしまうと)、そうした越境が抑制されてしまう。それが私が感じる窮屈さの正体であろう。
これはカテゴリーが良いか悪いかという話ではないし、「タスク管理」というカテゴリーの設定が良くない、という話でもない。あくまで、私の注意を軸におくと、そうしたカテゴリーはトップにはならない、というだけである。
私の注意はむしろ、そのように個別にカテゴライズされる多様な領域の中に、「何か共通するものがある」と見出すことであり、それはあらかじめ定められたカテゴリーに沿って何かを言うことではなく、むしろまだ存在しない(
Unnamedな)カテゴリーを据えるような知的活動である。
このプロジェクトはそうした私の視点によって設計されている。それが心地よいわけだ。
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カテゴリーの棚に入れることで、他人からの反応がもらえたり、そのジャンルへの貢献ができたりする部分があるのが、また難しい。
外から見る人には、カテゴリーとしてまとまっている方が見やすいだろうと思うときがあります
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たとえばノートのノート
/notilst。ノートについてまとまっているので、こちらを見に行けばよいとわかる(今後、どのように育っていくかはまだわかりませんが)
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つまり、外から見る人に「合わせる」と、内側からの自由な議論の展開がやりにくくなる、ということなのだと予想します。
外から見る人=公共性→図書館的分類が必要
的な話で。
そうですね。ちょうどシンポジウムなどで聴衆に合わせた話をするようなものだと思います。
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まさに。
だから、議論を広げる「クローズ」(閉鎖的という意味ではない)な場所と、それをパブリックに届けるために整える場所の二つの場所が必要で、それを「直結」してしまうと、たぶん両方ともうまくいかなくなるんじゃなかなと感じます。
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「議論を広げる場所」が「
閉鎖的という意味ではないクローズ」であるという場合の、この「クローズ」は、なんらかの場の属性でありかつ議論を広げるために必要な属性であると思うが、それはなんだろうか??
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示唆に富みます。
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Scrapboxも書くためのツールで、読む用途としてはあまり向いてないという話を思い出しました
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wikipediaですら、ページの「裏」に議論ページがあるので、切り分けが必要ということなのでしょう。
何を話してもいいのではなく、説明あるいは文章を編集する場所がいるというか。
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ちょうど「映画大好きポンポさん」の感想で編集が大事という話がありました(ちょっと話の筋からずれているかもしれません)
> 「映画大好きポンポさん」観てきました。とても面白かったです。編集大事。カット(切る)大事。一番言いたい、見せたいものの為にすべてがある(あるいはない)のですねぇ……
偉人たちがしばしば形成していた
サロン的空間には、当然カテゴリーなどというものはないのですよね。
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そしてそういう空間は何も「上流の人」しか形成してはいけないわけでもなく、インターネットによって誰でも形成して参加できるようになっているので、サロン的空間こそを望む人々の間で如何にうまく場を用意するかということだなと思いました。
カテゴリーとしては別の名前が与えられるとしても、実際それに当たる私達の脳の中では同じ部位が刺激されているということがあり、そういうものを掴もうとしている、という印象を受けました。
多分私も同じような関心構造を持っていると思うのですが、どうしてそこに名前がないんだろう、どうして名前を思いつくことができないんだろう、と常々思っています。