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観光客の民主主義は可能か
public

今までの民主主義は土地に縛り付けられた、固定的な構成員によるものだった
古代ギリシャにせよ、近代の国民国家にせよこれは同じ
しかし、東浩紀は「観光客の哲学」の中で、"観光客"という概念を歓迎した
観光客」という概念は、特定の土地とまったく関係がないわけでもなければ、かといってそこに完全にコミットしているわけでもない、ある意味で中途半端なポジション

宇野重規は「保守主義とは何か」で保守は親密で閉じたコミュニティを大切にするが、リベラルはそこから離れた普遍的な連帯を大切にすると指摘している
開かれた社会」を主張するカール・ポパーは、プラトンの『国家』に対し「部族主義的」で「閉じている」と批判
しかし、プラトン自身は「家族を解体して、子どもも共有しろ」という提案を(国家の中で)している = 家族否定論者
それでも、ポパーは部族的 = 家族的に見えている

>宇野重規多くの人は、抽象的な理念からこぼれ落ちる感情による結びつきや、それぞれの文化に固有な価値への忠誠や誠実さを大切にしています。それを拾うのはいわゆる保守なんですよね。リベラルはむしろ普遍的な理念の共感を優先する。
>それはときとして「これは正しい理念なのだから、みな当然に賛同するはずだ」という、とても傲慢で閉じられた態度にもつながります。いわば「普遍主義的な部族主義」が生まれる、まさにパラドックスです。
その点、ポパーのプラトン批判には理解できるところがあります
"リベラル村"じゃないか!という批判をカール・ポパーは出来ていたという感じかなtkgshn


ここで家族の概念から、「子ども」について話題が移り変わる
>宇野重規家族と共に再構築するべき概念は「子ども」でしょう。
>東浩紀人は生まれ落ちた瞬間に父や母といった家族と関係を持ち、さまざまなひとたちと出会っていく。その人々は選ぶことができない。
>" 誰もがその事実から始めるしかないので、その点では誰もが保守的ですが、 他方、その「開かれ」に注目すればリベラルだとも言える