ページが切り出されると現実が立ち上がり事実が生み出される
私家版 (private edition)
(Start presentation)
始めに
「
境界」と「
偶然」を起点にあらゆるリンクがガツンと音を立てて繋がる様子について
Wiki の面倒なのは、タイトルをつけなければならないところ
あとで勝手に上手いことまとまって欲しい
最寄りのテキストエリアに適当に貼りつけて
これは延々と続く。それに飽きてしまうまでは
それは Re の系譜と呼ばれる
切り出されたものが真か、残ったものが真か
正誤、真否、成否、是非、ゼロイチ
> 境界を超えてしまうと混乱に巻き込まれることがある。
> こちら側から相手の状況見ていれば、向こう側では許されない動きがこちらでスルリと出来たりする。
> いずれにせよ「境界」が見えているものと見えないものでは見ている世界が違う。
> だからこそ、境界ははっきりと引くべきである。それを越えるにせよ越えないにせよ(謎)
境界ははっきりと引くべきである。それを越えるにせよ越えないにせよ
書くことによって、書かれたことと書かれなかったことの間に
境界が引かれる
切り出すことによって、そのページとあのページの間には
境界が引かれる
リンクすることによって、(略)
選択することによって、(謎)
新明解国語辞典より
土地(2つのものの間)の境
「境界線を引く」/「境界標」
境界線
それは無名匿名なインターネットの
前衛、辺境、周縁の地に住む
われわれにとって生存に欠かせないものである
自分の安全を守るために
世界から身を隠すために
あえて危険を冒すために
冒険の旅になる出るために
>Web の前衛,辺境,周縁,まあなんと呼んでもいい
> フロンティアというのは、大航海時代の冒険の原動力となったモノでもあったし、アメリカが太平洋を目指す原動力となったモノでもあった
それはインディアンを征服する原動力となったモノでもあったし、太平洋の反対側の小国との全面戦争の原動力となったモノでもあったし、人類が月面に星条旗をぶっ刺した原動力となったモノでもあった
> ダーウィン的進化が起きるための必要条件というのは、遺伝情報物質を持っているということと、それが膜に包まれているということ
世界を二分する
自己と他者
ローカルとグローバル、ホームとアウェイ
東洋と西洋、過去と未来
陸と空、地と海、大陸と海洋
人工と自然
自分と世界
A が定まるとnot A がそこに立ち上がる
アリストテレスは生物を540種に分けた
> アリストテレスは、生物学において卓越した観察眼を発揮した。
> 動物に関して膨大な研究を行い、経験的・帰納的方法を発揮して約540種もの動物をその形態によって分類した。
> アリストテレスは、無生物→植物→動物→人間 と切れ目なく連続的に完全度を増していくという「自然の階段」説を唱えた。
世界を分けることは人間の認識の根幹に関わる
分けること、並べること
分類と系統
それはアリストテレスから始まった
人間の社会性、文化というのは、グループを2つに分けることから始まる
> 人間の社会性、文化というのは、グループを2つに分けることから始まる
> 2つのグループに特段意味がある必要はなく、2つに分けさえすれば、あとは勝手にこの2つのグループは差別化が進むということだ
> 現実があって地図があるのではない。地図ができあがれば、そのとおりに現実が立ち上がり、領土が生み出される
文字が書き起こされると現実が立ち上がり、ページが切り出されればそのとおりに事実が生み出される
> 言葉が先にあって、事実があとから都合よく形作られていく
世界は分断の危機にあるそうだ
> 長い長い春が続いたこのインターネットはイーロン・マスクの手で存亡の危機に陥っているらしい。人々のうずまく承認欲求に世界は分断の危機にあるそうだ。
> 時間の流れを遡ると時間が経つにつれて枝分かれ分岐を繰り返して世界が細分化されてバラバラになっていく様を見ることが出来る。
> 断裂、対立、分断は歴史の中で何回も何回も、いろいろな場所で現れる。
彼らの言葉を乱してやろう。互いに相手の言葉を理解できなくなるように
> 境界を横断する。もっと乱暴にいうと、片っ端から障壁をぶっ壊して進む
> もっと前のめりな、「自分たちのものにする」「乗っ取る」みたいなノリで使う必要がある
> そんなシーンの中で、ローカルの精神を発揮する連中はいて、その場所、場所で新しいシーンのエッセンスを自分たちのスタイルで展開するようになっていった
境界は現実よりもフィクションです
> (2) ナショナル・アイデンティティ(国民意識)は現実よりもフィクションです。
> 彼らは、河川と海を交易の手段として利用していた
> まだ国境なんて存在しなかったから、その範囲が日本列島だけに限定されなかった。そんなふうに考えることは、現代人の認識のバグなのだろう
引かれた
境界を行ったり来たり出来ないなんて考えることは、現代人の
認識のバグなのだろう
> 対して、モデルBでは、自己の境界が他者のそれとなかば融解しており、ある感情を他者とともに経験する様子が描かれている
> 時事問題のノイズを BGM にしてしまうのが古典である。同時に、この BGM の喧噪はあくまでも必要なのだ。
> もっとも相容れない種類のノイズがすべてを覆っているときでさえ、 BGM のようにささやきつづけるのが、古典だ。
どこにいようと聞こえてくるのはほとんどノイズだ
> どこにいようと聞こえてくるのはほとんどノイズだ。ノイズは無視するとかえって邪魔になる。耳をすますとその魅力が分かる
何かが起きたときの音
> その中にこんな問いがあった。「世界でもっとも美しい音楽はなにか」とね。英雄たちが次々に答えていって、最後の者が「何かが起きたときの音が、世界でもっとも美しい」と言って、それが最高の答えだとみんな思ったというわけ。
この原則わかんない奴はインターネット合わないと思う
使えるものは見境なくなんでも使われる
> 対話においてもシグナルとノイズの区別に意味はない。使えるものは見境なくなんでも使われる。たとえ傍目からはそれがノイズに見えたとしても
> 芸術は見えないほどの微粒子となって世の中に散らばり、そうやって拡散した芸術が路上で発見されたものがトマソンである
> 世の中に広く散らばっている偶然は、何か大きな力で集約されていくのではないか
> 出会うべきキチガイとは、自然と必然的に出会えるものなんだよ。それも偶然を装って。
> このようにさまざまな窓口は開かれている。SNSに閉塞感を抱くでもなく、Web3に望みを託すでもなく、見知らぬ人々と立場を超えて繋がれるインターネットはただそこにある。
> 日常と異界は隣り合ってる。異界への入り口は常に開かれてる。閉塞感を抱くでもなく、望みを託すでもなく、見知らぬ人々と立場を超えて繋がれるインターネットはただそこにある
人間の身体には、いくつもの孔がうがたれている
> 問題は、自己の内と外との関係にある。私の内と外とは、どのように隔てられているのか。そもそも人間に、内と外の境界線など存在するのか。
> 人間の身体には、いくつもの孔がうがたれている。 口や耳や鼻、あるいは肛門、 さらには皮膚に無数に拡がる汗腺などを通じて、いろいろな物質が人間を出入りする。
> 文章中のキーワードをブラケット [ ]
で囲む
> 「リンクをつける行為」を「ブラケティング」と呼ぶ
> この宇宙の最初にあるのは偶然性であり、混沌であった。それは無秩序であると同時に、自発性や独創性の源でもある。これを「第一のもの( The first )」と呼んだ
> 何がこの「第一のもの」と「第二のもの」を媒介するのか。それが「第三のもの」である習慣である
> パースの宇宙論における習慣とは、個別的な偶然性を全体的な秩序へと媒介する存在であり、変化し成長する力である
> デイリーコーディングやってて良かったことの一つは,ひとりで続けていたはずの活動に,気づかなかった価値や参照点を誰かが教えてくれること.それらに触れていくうちに,興味や関心が歴史や文化に向かったことだった.開いていくことや,続けていることがそういう結び目をつくってくれる.
> 近代という時代に、社会を人体のように一つにまとめる「超越的な秩序」が不在となって、統合ではなく対立や分断を内に抱えていることがむしろ社会の構成要件になってゆく
世界を結び直す、編み直す
> 願わくば大好きなこの場所が、調整されていない不用意なインターネットであり続けますように。
願わくば大好きなこの場所が、結び直す、編み直す、開いていく、続いていく、そんな「場」であり続けますように