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『読んでいない本について堂々と語る方法』読解



概要

目次
第Ⅰ部 未読の諸段階(「読んでいない」にも色々あって……)
Ⅰ-1 ぜんぜん読んだことのない本
Ⅰ-2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
Ⅰ-3 人から聞いたことがある本
Ⅰ-4 読んだことはあるが忘れてしまった本
第Ⅱ部 どんな状況でコメントするのか
Ⅱ-1 大勢の人の前で
Ⅱ-2 教師の面前で
Ⅱ-3 作家を前にして
Ⅱ-4 愛する人の前で
第Ⅲ部 心がまえ
Ⅲ-1 気後れしない
Ⅲ-2 自分の考えを押しつける
Ⅲ-3 本をでっち上げる
Ⅲ-4 自分自身について語る
結び
訳者あとがき


ざっと読み返してみると
第Ⅰ部で、本を「読んでいる」「読んでいない」といってもその境界はあやしいよね、と言っていて
第Ⅱ部で、本について語るっていうのも色々あるよね、と言っていて
その二つをふまえて、核心に迫るのが第Ⅲ部、ということらしい
にも関わらず、読んだ形跡がなかった。そこまでたどり着けなかったみたい
その核心の第Ⅲ部は「本について語ること」と言いつつ、人と人の関係だったり知識とはなんなのかという話だったりその照準、射程がだいぶ引き伸ばされている
(と思う。読んでないけど)


読んでいないのはみんな同じ
インターネットに転がっているこの本についての文章を読むと、ほとんどは、第Ⅰ部の「読んでいる」「読んでいない」について書かれている
それしかコメントしていないから、大抵の人はみんな、そこしか読んでいないのだと思う
そこに素晴らしくエッジが立っているから、そこで満足してしまう、というものあるかもしれない


〈図書館〉とは
三つの〈図書館〉について
〈共有図書館〉
「第Ⅰ部 未読の諸段階」の「Ⅰ-1 ぜんぜん読んだことのない本」に登場
> ある本についての会話は、ほとんどの場合、見かけに反して、その本だけについてではなく、もっと広い範囲の一まとまりの本について交わされる。それは、ある時点で、ある文化の方向性を決定づける一連の重要書の全体である。私はここでそれを〈共有図書館〉と呼びたいと思う
p35
> この〈共有図書館〉を把握しているということが、書物について語るときの決め手となるのである。ただし、これは〈共有図書館〉を、構成している諸要素間の関係の把握であって、切り離されたしかじかの要素の把握ではない
p36
〈内なる図書館〉
「第Ⅱ部 どんな状況でコメントするのか」の「Ⅱ-1 大勢の人の前で」に登場
> この書物の集合体を、私は〈内なる図書館〉と呼びたい。それは〈共有図書館〉の下位に分類されるべき集合体で、それにもとづいてあらゆる人格が形成されるとともに、書物や他人との関係も規定される
p121
> 〈内なる図書館〉を形成しているのはとくに、モンテーニュの読書室と同様、忘れられた書物や想像上の書物の断片である
p122
> というのも、われわれはたんに〈内なる図書館〉を内部に宿しているだけではないからである。われわれ自身がそこに蓄積されてきた書物の総体なのである
p123
われわれは内部に〈内なる図書館〉を宿している、のではなくて、〈内なる図書館〉こそがわれわれ自身なのだ
〈ヴァーチャル図書館〉
「第Ⅲ部 心がまえ」の「Ⅲ-1 気後れしない」に登場
> 書物に関する — いや、より一般的に、教養に関する — このコミュニケーション空間を〈ヴァーチャル図書館〉と呼んでもいいだろう。これはイメージ(とくに自己イメージ)に支配された空間であり、現実の空間ではないからである
p194
> 〈ヴァーチャル図書館〉は私が本書で導入する〈図書館〉のうちの三つ目のタイプで、書物について口頭ないし文書で他人と語り合う空間である。これは〈共有図書館〉の可動部分であって、語り合う者それぞれの〈内なる図書館〉が出会う場に位置している
p195 脚注14


〈図書館〉と〈書物〉の関係
自分から外に向かって、という順番で並べると、
〈内なる図書館〉
〈内なる書物〉
〈共有図書館〉
遮蔽幕としての書物〉
遮蔽幕としての記憶〉
遮蔽幕=スクリーン
〈ヴァーチャル図書館〉
〈幻影としての書物〉


〈遮蔽幕の書物〉とは
> モンテーニュが書物と取り結ぶ関係は、誇張されているように見えるかもしれないが、われわれ自身の書物との関係と本質的には変わらない。われわれが記憶に留めるのは、均質的な書物内容ではない。それはいくつもの部分的な読書から取ってきた、しばしば相互に入り組んだ、さまざまな断片であり、しかもそれはわれわれの個人的な幻想によって歪められている。つまりそれは、フロイトのいう〈遮蔽幕としての記憶〉に似た、捏造された書物の切れはしであって、その機能はとりわけ他の書物を隠蔽することなのである
p100
遮蔽幕の書物〉は第Ⅰ部、モンテーニュの話として書かれていて
第Ⅲ部だけじゃ終わらなくなっていて
そして〈遮蔽幕の書物〉は、フロイトの〈遮蔽幕の記憶〉から来ている、とあって
この本の外側にまで射程が延びている


第Ⅲ部だけ読んでチャッチャッと終わりと思っていたけど
どんどん沼に嵌っている感じ
飛ばし読みだけど、読み下すほど、思っていたより複雑な構成になっている
貼られた伏線が回収されつつ、新たな伏線が貼られる感じ
バターになってしまう


「本」と「書物」の関係
この本の中では本のことを「本」と「書物」の二つの言葉で表している
書き分けているように見えるけど、書き分けている根拠、それぞれの表す意味の違いが分からない
「Ⅰ-1 ぜんぜん読んだことのない本」でローベルト・ムジール特性のない男』からの引用を引いていてそこに「本」と「書物」の書き分けが現れる
もしかしたらそれぞれの〈図書館〉に属しているモノに対して「書物」と呼んでいるのかも
「書物」は、実体の、現実の「本」とは異なる
〈書物〉ってやるとわかりやすい


読解(というか引用)

第Ⅰ部 未読の諸段階
本を「読んでいる」「読んでいない」といってもその境界はあやしいよね
本と本の関係
本と人との関係

Ⅰ-1 ぜんぜん読んだことのない本
〈共有図書館〉
p36
一冊の本は、われわれの視界に入ってきた瞬間から未知の本ではなくなる。その本に関して何も知らなくても、それについて夢想することも、議論することもできる
教養ある、好奇心旺盛な人間なら、本を開く前から、タイトルやカバーにちょっと目をやるだけで、さまざまなイメージや印象が沸き起こる。それらのイメージや印象は、一般的教養がもたらす書物全般についての知識に助けられて、その本についての最初の見解に変わる
一度でも出会ったあとに未知でありつづけるような本はひとつもないといっていい

Ⅰ-2 ざっと読んだ(流し読みをした)ことがある本
p60
ヴァレリーにとって文学は、彼がアリストテレス等に依拠して「詩学」(ポイエティーク)と呼ぶところのものに属している
ヴァレリーが腐心したのは、なによりも文学の一般的法則を取り出すことだった
p64
われわれはたいていの場合、「読んでいる」と「読んでいない」の中間領域にいる

Ⅰ-3 人から聞いたことがある本
p84
われわれが話題にする書物は「現実の」書物とはほとんど関係がない。それは多くの場合〈遮蔽幕としての書物〉でしかない
われわれが話題にするのは書物ではなく、状況に応じて作りあげられるその代替物である
p85
各々が、独自の内的プロセスを経て、ひとつの想像上の書物を作りあげているのである。二人は同じ書物について語っているのではないのだ
こうしてこの書物の自己投影的性格はいやがうえにも強まる。それはふたりの幻想を受け止める器となる
p86
われわれが話題にする書物はすべて〈遮蔽幕としての書物〉であり、この無限の書物の連鎖のなかでの一つの代替要素である
われわれの書物についての言説の大部分は、書物について発せられた他の言説に関するものであり、これもまたさらに別の言説に関するものであって、この連鎖には際限がない
これらの言説のなかには、われわれが自分自身に発する言説も含まれる

Ⅰ-4 読んだことはあるが忘れてしまった本
p99
読書はたんに記憶の欠落に結びついているだけではない。それはまた、読書に起因する人格の二重化をとおして、狂気に陥る不安とも結びついている
どんな取るに足らないテクストも固定できないため、読書主体が自己と同一化できないという事態を不断に引き起こしかねない
p100
モンテーニュは、自己消失を繰りかえし経験している点で、これまで言及してきたどの作家にもまして「読むこと」と「読まない」こととの境界を無効にする作家である
書物というものが、読んだかどうかすら忘れてしまうほど、読みはじめたとたんに意識から消えていくものであるとしたら、読書の概念じたいがいかなる有効性ももたなくなる
どんな本も、それを開くにせよ開かないにせよ、別のどんな本とも等価だということになるからである
p101
モンテーニュの文章から見えてくる読書主体のイメージは、統一性のある自己を保証された主体のイメージではない
不確かな、テクストの断片のあいだで自分を見失った主体、これらの断片が誰のものかも分かっていない主体である
そして、自分のものと他人のものとを区別することもできなくなって、ついには書物と出会うたびに自分自身の狂気と対面する羽目になるのである


第Ⅱ部 どんな状況でコメントするのか
本について語る相手というのはいろいろなパターンがあるよね
人と人との関係

Ⅱ-1 大勢の人の前で
p120
「耳の聞こえない者どうしの対話」
話題にされているのは、現実の書物よりも断片的な、再構成された書物である。すなわち、他の読者の書物とは関係のない、したがってそれらと同一視することなどほとんどできない〈遮蔽幕としての書物〉である
p121
「耳の聞こえない者どうしの対話」が起こる原因は、二つの陣営が、二つの別々の書物の集合体、というより、お互いに異なり、対立する二つの〈図書館〉を出発点として対話しようといるということにもあるのである
その背景にあるのは、深層において異なる、互いに相容れないとすらいえる、二つの教養の対決なのである。この書物の集合体を〈内なる図書館〉と呼びたい
p122-p123
われわれの〈内なる図書館〉は、会話の瞬間において、他人の〈内なる図書館〉と関係をもつ。この関係は摩擦と衝突の危険を孕んでいる
われわれはたんに〈内なる図書館〉を内部に宿しているだけではない
われわれ自身がそこに蓄積されてきた書物の総体なのである

Ⅱ-2 教師の面前で
人類学者 ローラ・ボハナン、西アフリカのティヴ族にシェイクスピアハムレット』を語る
p135-p136
この神話的、集団的、ないし個人的な表象の総体を〈内なる書物〉と呼びたい。これは、われわれが新たに本に出会うたびに、われわれとその本のあいだを仲介し、われわれの知らないうちに読解のしかたを方向づけるものである。ほとんど無意識の領野に属するこの想像上の書物は、新しいテクストの受容にさいしてフィルターの役割を果たし、テクストのどの要素を取り上げ、それをどのように解釈するかを決定する
p136
この〈内なる書物〉は内在的かつ理念的で、ひとつないし複数の伝説的問題を内に含んでいる
p140
〈内なる書物〉は、私が『ハムレット』について書いた本のなかで「内なるパラダイム」と呼んだものに似ている。「内なるパラダイム」とは各人の現実受容のシステムで、それぞれがあまりに特殊であるため、二つのパラダイムが真のコミュニケーションを交わすことはできないのである

Ⅱ-3 作家を前にして
p156
自分の本について、注意ぶかい読者とゆっくりと話をしたり、長いコメントを読んだことのある作家なら誰でもこの「不気味さ」の経験を味わっている
これは、作家の〈内なる書物〉と読者の〈内なる書物〉の違いにもとづくのであって、
p158-p159
作家は、人が自分の作品について語るとき、しばしばそれが別の作品のことであるような印象をもつが、たしかに人は別の作品について語っているのだ。この二重化現象は、われわれのなかに〈内なる書物〉があることから来るものである
〈内なる書物〉は誰にも伝えられないし、いかなる書物に重ね合わせることもできない。なぜならそれは、われわれを絶対的に単独化するものであり、われわれの内部にあって、いかなる表面的合意からも隔てられた、伝達不可能性そのものだからである

Ⅱ-4 愛する人の前で
p171
二人の人間が互いの〈内なる書物〉を、互いの内的宇宙そのものを、一致させることは、時間を無限に繰りかえすことができる世界に住んでいないかぎり、現実には不可能である。二人の小宇宙は、互いに相容れないイメージと言説の断片からなっているからだ
このテクストはふつうの世界では、たえず変容を続けていて、その動きを止めることも、自分のテクストを相手のそれに一致させることもできないのである


第Ⅲ部 心がまえ
本について語るということの「本」とはなんなのか、という話

Ⅲ-1 気後れしない
p194
〈ヴァーチャル図書館〉
この空間は、「本」が「本の虚構」によって取って代わられる合意の場として、これを維持することを目的とする、一定数のルールに従う
幼年期の遊戯や演劇でいう演技とも無関係ではないゲーム空間
p198
書物は ―読んだものも読んでいないものも― いわば第二の言語となる
書物は、言葉と同様、われわれが自分を表現するのに役立つだけでなく、自分を補完するのにも役立つ
書物から抽出され、手直しされた抜粋によって、われわれの人格に欠けている要素を補い、われわれが抱えている裂け目を塞ぐ、そうした役割を果たす
しかし書物は、言葉と同様、われわれを表象しつつ、われわれを歪めて伝えるものでもある
これらの書物はしばしば、よく知られていない、ないし忘れ去られた断章としてしかわれわれの中に存在していないため、あらゆる言語がそうであるように不十分であり、われわれとの代理関係もいびつである

Ⅲ-2 自分の考えを押しつける
p221
本は物質的に変化しないが〈共有図書館〉の要素としては変容を蒙るのである
コンテクストの重要性、決定力
コンテクストに関心を向けることは、書物というものは永遠に固定されてあるものではなく動的な対象であり、その変わりやすさは部分的には書物の周りで織りなされる権力関係総体に由来している、ということを思い出すことである
もし著者も書物も変わるものだとしたら、読者はどうだろうか
p224
書物は固定したテクストではなく、変わりやすい対象だということを認めることは、たしかに人を不安にさせる。なぜなら、そう認めることでわれわれは、書物を鏡として、われわれ自身の不安定さ、つまりわれわれの狂気と向き合うことになるからだ
テクストの変わりやすさを認めることは、作品解釈に大きな自由を与えてくれる切り札である
〈ヴァーチャル図書館〉の驚くべき可塑性

Ⅲ-3 本をでっち上げる
p232
> それで僕はこの男もやはり僕同様この小説を読んでおらないという事を知った」神経胃弱性の主人は眼を丸くして問いかけた。
> 「そんな出鱈目でたらめをいってもし相手が読んでいたらどうするつもりだ」あたかも人を欺あざむくのは差支さしつかえない、ただ化ばけの皮かわがあらわれた時は困るじゃないかと感じたもののごとくである。美学者は少しも動じない。「なにその時ときゃ別の本と間違えたとか何とか云うばかりさ」と云ってけらけら笑っている。
p243
書物にとって大事なものは書物の外側にある。
大事なものとはその書物について語る瞬間である
ある書物について語るということは、その書物の空間よりも、その書物についての言説の時間に関わっている
p244
詳しすぎることを言ってその意味を狭めることを慎み、むしろ、ポリフォニーを最大限に尊重する方向でそれを迎え入れなければならない
遮蔽幕としての書物〉

Ⅲ-4 自分自身について語る
p258
作品と批評とを結ぶ絆は、モチーフのレベルにとどめられた。かなり緩い絆である
このモチーフをどう扱うのかにかかっているのであって、それにいかに忠実かが問われるわけではない
p260
批評は、作品と、もはや何の関係も持たないとき、理想的な形式にたどり着く
批評の対象は、作品ではなく、批評家自身なのである
p263
読書のパラドックスは、自分自身に至るためには書物を経由しなければならないが、書物はあくまで通過点でなければならないという点にある
p264
話したり書いたりするコンテクストの各々において、それに適した書物を創造しなければならない
〈幻影としての書物〉
この創造は主体の真実に支えられており、その内的世界の延長上に位置づけられる
ここでの「主体」とは読者、批評家、つまり、われわれのこと
恐れるべきは、素材とする作品を裏切ることではなく、自分自身を裏切ることなのである


所見
ここで〈図書館〉とか〈書物〉とか一つ一つの言葉の定義に執着したくなってしまうけど、それは視野を狭めることになると思う
なぜかというと、
この本では最初から最後まで二人の登場人物が本について語っている様子を取り上げていて、そのどのシーンでも三種類の〈図書館〉とそれぞれに属している〈書物〉をやりとりしているはず
それを便宜上その章のテーマに合わせて、どれかの〈図書館〉とその〈書物〉にスポットライトを当てているだけ
実際にはそれぞれのフェーズを目まぐるしく行ったり来たりしているので、その境目は実に曖昧なのだと思う
ここでは読書の話をしているけど、ティヴ族の話が示すように、本の話に限定されない。ここでやり取りされているのは知識であったり文化であったりする