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他者の意識に対する懐疑
デカルト方法的懐疑からは他者が意識を持つことは確信が持てない
どれだけ内省や観照を積み重ねても、他者の(意識)の存在は確信できない
哲学的ゾンビかもしれない。
AIかもしれない。

チューリング・テストはそこにある程度の融和をもたらした
自分が、そいつのことを人間だと感じるなら、それは人間ということにしておく(そうしておいて、たいした問題はない)
人間の定義を、人間が定義付ける行為だが、その人間は、自分である。
自分は人間であり、その人間が他者のことを人間らしく感じるのだから、そいつも人間としておく
デカルトの我思う、ゆえに我ありですら、懐疑しているものを我(自分)としよう、という仮説だと捉えれば、この二つは非常に似通ってくる。
人間の定義が先にあるのではなく、自分という存在と、それに非常に似通った性質を持つ存在を、人間と呼ぶことにしている、というのが近いかもしれない。