『遅いインターネット』
『遅いインターネット(NewsPicks Book)』
>インターネットによって失った未来をインターネットによって取り戻す
>インターネットは世の中の「速度」を決定的に上げた。しかしその弊害がさまざまな場面で現出している。世界の分断、排外主義の台頭、そしてポピュリズムによる民主主義の暴走は、「速すぎるインターネット」がもたらすそれの典型例だ。インターネットによって本来辿り着くべきだった未来を取り戻すには、今何が必要なのか。気鋭の評論家が提言する。
第1章「民主主義を半分諦めることで、守る」。
どこでも仕事ができる人は、国内の政治について関心を持つ必要性は薄く、どこかでしか仕事ができない人は、国内の政治に関心を持つ必要があり、またそれは「壁を作り」、自らの仕事を守るという、ナショナリズムに偏る傾向を持つ。後者のような人々にとって、世界とつながっている感覚(幻想)を持てるのが、政治参加しかないから。よって、現状で民主主義を全体的に肯定するのは難しい。少なくとも、自由と平等の常なる味方だと過信することはできない。だから、「半分諦める」。
提示される三つの処方箋。一つ目は、民主主義と立憲主義のパワーバランスを、後者に傾けること。民主主義で変えられることをより狭くしてしまう。憲法の力を強める。たとえば、自殺するスイッチを自由意志で押せる状態があるとしたら、少なくともそのスイッチだけは押せないようにしておきましょう、というようなこと。
二つ目は、情報技術を用いてあたらしい政治参加の回路を構築すること。高尚な「市民」でもなく、愚昧な「大衆」でもない、その中間地点をうろちょろする「人間」をそのまま取り込めるような仕組みづくりをする。たとえば、職業ギルド的なものができれば、それによってロビイング活動も可能になるだろう。業界団体とはまた別の圧力がかけられるはず。
第3の提案は、メディアによる介入で僕たち人間と情報との関係を変えていくこと。端的に述べれば「よいメディア」を作ること。それが意味することが、「遅い」インターネット。
第二章「現実拡張の時代」の途中まで。
「他人の物語」から「自分の物語」への転換。やや否定的な形で語られている印象。
まずは、「現実拡張」という時、そこで意味される「現実」とは一体なんなのかを自分なりに考えてみたい。
もう一つ、Googleの検索結果が汚染されている、という表現があるが(私も使う)、その「汚染」という表現が使われる背景にはどんなイメージがあるだろうか。
第二章「現実拡張の時代」まで読了。
情報技術とエンターテイメントの発展を追いながら、以下の四象限を設定する
自分の物語・他人の物語
日常・非日常
それぞれ、映画(他人・非日常)・テレビ(他人・日常)・生活(自分・日常)・祝祭(自分・非日常)が対応させられている。
現実拡張で拡張される現実とは何かと言えば、反現実の視点からいって、それは「拡張されていない現実」という引き算的な表現となる。
反現実は、
見田宗介によって構築された概念で、「理想と現実」「夢と現実」「虚構と現実」といった具合に、現実と対比されて用いられる、実際には存在しないが、しかし私たちの現実に影響を与えるもののことである。
『遅いインターネット』第2章「現実拡張の時代」。情報技術とメディアの展開を追いながら、以下の二軸から四象限を設定する。{自分の物語/他人の物語}{日常/非日常}。その上で映画(他/非)・テレビ(他/日)・祝祭(自/非)が行き詰まっていることを確認し日常(自/日)へと接続する
第2章を読み始めたとき、「現実拡張」の拡張される「現実」とはなんだろうかと思いながら読み進めていたが、結局それは反現実的な定義、つまり「拡張されていない現実」というのが着地点になるのだろう。つまり、現代の私たちにとっての現実は、常に非拡張なものなのだ。
虚構の弱さに絡めて言うと、現代で異世界転生が猛威を奮っているのも理解できる。あれは虚構ではなく、拡張された現実なのだ。なぜなら、リアルの「私」が、そのまま他の世界に接続し、そこが新しいリアルとなっているから。しかも古きリアルの記憶は消えず、むしろそれが役立つ形になっている。
第3章「21世紀の共同幻想論」
現代の情報社会環境から
吉本隆明の「共同幻想論」を読み直す。
自己幻想(プロフィール)、
対幻想(メッセンジャー)、
共同幻想(タイムライン)。人間が社会を認識するときに出現する三幻想。
共同幻想からいかに「自立」するか、という問題意識。吉本は最初対幻想を強化することで、ついで自己幻想を強化することで、その道を模索した。「日常×自分の物語」を考え続けてきた思想家。
個の自立というボトムアップのアプローチは、
無責任の体系を引き起こしてしまう。
消費という自己幻想→「
ほぼ日」の消費社会への戦略的撤退の射程の限界。
自己幻想の肥大化を抑制すること。自己幻想とうまく付き合っていく視座。
『遅いインターネット』第3章「21世紀の共同幻想論」。現代の情報環境から吉本の共同幻想論を読み直す。共同幻想から自立するために自己幻想を強化するアプローチを引き継いだほぼ日は、しかし消費社会への戦略的撤退の射程の限界を持つ。では、コトの次元にいかに止まるか。
三幻想からの自立を目指すのではなく、むしろ二つの幻想を飲み込み、肥大化し続ける自己幻想をいかにマネジメントするのか。それが現代的な課題であると、指摘される。
第四章「遅いインターネット」
インターネットを再び考えるための装置へと復帰させる。そのためのプロジェクト。まず良質な読者として成熟してもらうこと。その後、批評的に文章を書いてもらうこと。現代は「読む」から入って「書く」へと通じる回路が形成されていない。
「遅いインターネット」では、良質なWebマガジンを無料で読めるようにしつつ、良質な読み手→書き手になるためのワークショップなどから原資を集める、という試み。この試み自体が、自己啓発セミナーと同じではないか、という視点はあるだろうが、その視点を抜きにしても、結局のところ、大衆を「市民」に変えるしかない、という教養主義の焼き直しになっている点は否めない。でも、結局はその通りなのだろう。大衆そのままに期待するのは、リベラル的ではあっても、現実にはそぐわない気がする。
本書前半で論じられた「職業人」というのが、そこにある種のリテラシーを認めるなら、結局それが、アテネの「自由市民」と同一視できるのだろう。アレントの考え方と対比的に見てみても面白いはずだ。
とりあえず、たんに「遅く」するということではなく、インターネットの自律的な高速を相対化すること。速度を選べる自由を手にすること。そのための「遅いインターネット」。僕はむしろ、この「遅い」という表現から何かを考えてみたい。
『遅いインターネット』第4章「遅いインターネット」。インターネットを「考えさえない」ための道具から、「考えるための」道具へと転化していくこと。今のネット原理の「速さ」から自由になるために、あえて「遅い」を選択する。受信と発信の間に(時間的な)ズレを生み出す。
まず、良質な読者になるように促し、その後に自律的な発信主体として(それはつまり、ネット原理の「速さ」から離れることを意味する)活動してもらう。そのようなコミュニティーとWebメディアを作っていく、というのが著者が描いている計画であり、実際に実行されているものでもある。