『庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵』
>作庭現場のフィールドワークから、庭の造形を考え、庭師の生態を観察し、庭のなりたちを記述していく、新感覚の庭園論がここに誕生!
>庭師であり美学者でもあるというユニークなバックグラウンドを持つ注目の研究者・山内朋樹の待望の初単著。
>庭の見方をガラリと変えてくれる画期的な庭園論であり、すごく応用の利く本だと思う。
>「ひとつ石を置き、もうひとつをどう置くか」というのは、
>絵画の話でもあるし、音楽でも料理でも、会話術でもビジネス術でもあるからだ。
>本書は庭師であり美学研究者でもある山内朋樹が、京都福知山の観音寺を訪ね、その大聖院庭園作庭工事のフィールドワークをもとに、庭のつくられ方を記録した「令和・作庭記」である。
>庭について、石組について、植栽について、空間について、流れについて、部分と全体について……
>制作のプロセスを徹底的に観察するとともに、その造形(かたち・構造)の論理を分析し、「制作されるもの」と「制作するもの」の間に起きていることを思考する。ミクロの視点で時間軸を引き伸ばしながら、かたちが生まれるその瞬間を丹念に解読していく、他に類を見ない新しい「制作論」。
>本書を読んだ後には、これまで見ていた庭や、木々や、石や、そして景色の見え方が変わって見える!
>はじめに——ぼくが庭のフィールドワークに出る理由
>第1章 石の求めるところにしたがって〈庭園の詩学①〉
>第4章 物と者の共同性を縫い上げる〈庭師の知恵②〉
第1章「石の求めるところにしたがって」まで。最初の石の配置から、そこでどんな力の動きがあったのかが考察される。ビビッドなのは、初手の石の前に制約を与えるようなものがあったという発見。それにより無からの創造ではなく、制約の創造という観点が立ち上がる。
第2章「集団制作の現場から」。ここでは設計図の働きに焦点が当てられる。紙の上の設計図と、庭そのものが庭の設計図という見立て。そして者の関係をつなぐものとしての物。そこにある、更新される設計図という視点は『Re:vision』のテーマとも通じるところがありそう。
第3章「徹底的にかたちをみよ」まで。石が置かれ、置き直される過程を辿りながら、つくる人たちの意図・非意図の絡み合いが読み解かれる。何よりも驚いたのは、最後に示される古川の遠大な構想。視点のズームが揺さぶられる。
あと、移動用のワイヤーがついたままの石というのは、アウトライナーのバレットを強く想起した。
第4章「物と者の共同性を縫い上げる」まで。ここでは職人が道具や素材をどう使うのか、もっと言えばそれらとどのような関係性を結ぶのかが考察される。印象的なのは「ぬすむ」という言葉、それに道具を「遊ばせる」という身体的な技術。そこでは、西洋的な「主体」というものが解体されるのではない形で、つまり別様に立ち上がっているように思われる。
第5章「庭をかたちづくるもの」まで。石組みの最後の作業を追いかけながら、突如現れてきた「過去」の石がもたらす変化、最後に植えられたモミジが持つ意義などについて検討される。人の手によって作られる庭と「自然」の関係をどう捉えるか。そこには確かに思想がある。
『庭のかたちが生まれるとき』を読み終えました。作庭の話ではありますが、私は徹頭徹尾「文章を書くとはどういうことか」という文脈に引きつけて読んでいました。同じようにさまざまな現場の制作において響くところが多い1冊だと思います。
>ここでは研究者と庭師、解釈と行為が対比されている。石がなにを求めているのかを研究者のように解釈するのではなく、しかし、石の乞うところにしたがって庭師として行為する。
>この現場でのものづくりは、あらかじめ複合的な与件をプロットした上でいくつもの図面や模型の制作を通じて具体化されていく建築設計とはまったく異なっているし、あるいはその影響を強く受けた現代の造園工事とも根本的に違っている。
>つまり子どもたちにとって、線は引かれた瞬間に自らの行為を拘束する。
>仮置きは仮のものでしかない。しかし、この庭=設計図のなかでは強力な効果を発揮するのだ。
書評記事