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『再読だけが創造的な読書術である』
(著) 永田希
出版社 :筑摩書房(2023/3/20) ISBN:4480816828
>読書猿氏推薦
>再読せよ。一生かけて読む本に、あなたはすでに出会っている。
>
>本を繰り返し開くことは、
>自分自身と向き合うことである。
>「多読という信仰」を相対化し、
>「自分ならではの時間」を生きる読書論!
>
>より多く、より新しく、より生産的な
>読書に駆り立てられてはいないか。
>現代に生きるわたしたちはえてして「新しいもの」を
>はじめとする刺激の強いものを求めがちです。
>しかしそれは環境に促されてそうしてしまっているだけかもしれません。
>自分は何を大事にしているのか、それを大事にしたい自分は何なのか、
>こういった問いをおろそかにしたまま強い刺激だけを追い求めていけば、
>行き着く先はバーンアウトに他ならないでしょう。
>(本文より)
>
>忙しさや生産性、新しさという
>強い刺激に駆り立てられる現代において、
>自分の生きる時間を取り戻すための方法論として
>素朴な多読ではなく、本書では「再読」を提唱する。
>読書するうえで直面する「わからなさという困難」を洗練させ、
>既知と未知のネットワークを創造的に発展させる
>知的技術としての「再読」へと導く。
>
>【目次】
>第一章 再読で「自分の時間」を生きる
>第二章 本を読むことは困難である
>第三章 ネットワークとテラフォーミング
>第四章 再読だけが創造的な読書術である
>第五章 創造的になることは孤独になることである

「はじめに」。まず、ネットワークとテラフォーミングというキーワードが提示される。後者は「読書」と共起性の高い単語ではないので中身が楽しみになってくる。

第一章「再読で「自分の時間」を生きる」。『モモ』を参照しながら現代的な状況が確認される。前著からのキーワード情報の濁流に加えて廃墟という言葉も出てくる。これはセルフケアを欠いた状態を示すものだろうし、おそらくテラフォーミングとも関わってくることが予想される。

さらに良い本との出会いの重要性が確認され、そのために本を読み捨てていくことの必要性が説かれる。一般的によくないことのように言われるが本をよく読む人なら知っているように。それは良き本との出会いには欠かせない行為である。本書でもそれが肯定される。

前著では「買った本を読まなくても別に構わない」と提示されたわけだが、本章でも読み捨てることや途中でやめてしまうことは構わないとされる。なぜなら本はそこで待っているからだ。もしもう一度読みたくなれば、そのとき読めばいい。本章では言及がまだないが、このような本というメディアの特性は、一種の「時間跳躍装置」的だと言えるだろう。いかに読むかの裁量が読み手に保持されている。そうしたメディアだからこそ「自分の時間」を取り戻す上で一役買うことができる。

さらに良い本と出会うために欠かせない要素として「自分を知ること」もあげられる。倉下がセルフスタディーズと呼んでいるようなことだ。良い本と出会うために自分を知ること、あるいは本を読みながら自分を知ること。そのような時間の使い方は「余計なこと」であろうが、だからこそケアとして機能する

「第二章 本を読むことは困難である」の半分まで(p.64)。ここまでの印象だが、文体が前著よりも少し“難しく”なっている。よりゆっくりじっくり読まないと、という感じがする。で、第二章の内容。読むことの困難、特に読書スランプについて。

読むことは基本的に困難なのだということ。その困難さを超克するのではなく、むしろ当然のものと受け入れた上で、それでも本を読もうとすること。それが「完全に読めていなかれば読んだことにはならない」という棘のような価値観に対する解毒剤になりうるであろう。

ここで短文でまとめるには不可能なほど微妙で繊細なことが語られているのでぜひ本書を直接あたっていただきたい。ともあれ、ここまでの内容をあえてキャッチーにまとめれば「読書の倫理学」と言えるように思う。

第二章p.65から。より奥にある読書の困難さについて。ここでは「わからなさ」とどう付き合うのかが考察される。はやりの言葉で言えばネガティヴ・ケイパビリティだが、そういう単純な言葉でまとめるのではなく、丹念にその中身が追いかけられている。

大切なのは、再読すると自分に違いが生まれる点。自分が違ってくるから読み方も変わってくる。この視点を逆にすれば、自分が変わりうる存在だからこそ、本という固定的なものが座標になりうると言えるだろう。両方変わってしまうとその座標が見失われる。情報の濁流とはまさしくそのことではないか。

「第三章 ネットワークとテラフォーミング」p.94まで。トリスタン・ガルシアの『激しい生』を参照しながら現代の私たちが「強さ=激しさ」に駆動されている状況が確認される。

さて、「強さ=激しさ」は熱量、エネルギーのパラフレーズであろう。それを欠いた人生を肯定することは難しい。おそらくガルシアも同様だからこそ、そこから「離れる」(捨てるのではなく)思考を提案しているのだろう。で、その思考がフラットだと評されるわけだが、そのフラットとはなんだろうか。

イデオロギー的偏りがないこと?脈打ちがない平坦さ? 何があればフラットなのか、あるいは何かがなければフラットなのか。ここはまだはっきりとしないので疑問を変数のように抱えておく。

ちなみに、私的なはずの読書がSNSなどで発信されていると書かれているが、まず読書は私的なものだけなのかという論点と、感想を言葉にしようとする中でメタな視点が生まれ得ることを考えると「使い方次第」という何の変哲もない結論が出てくる。

この何の“変哲もないもの”は要するに「強さ=激しさ」の欠如であろう。たしかに私たちはそうしたものに意味を見出しにくい。その結論だけならば。

しかし、そこに至るまでの理路であればどうか。その道中が起伏に飛んだものであれば、私たちはそこに価値を見出すのではないか。

もしかしたら、それが「強さ=激しさ」との一つの付き合い方なのかもしれない。

第三章p.95から。ネットワーク理論を引きながら読書において発現する(あるいは確認される)さまざまなネットワークが紹介される。その上で、そこにあるネットワークをある目的に適した状態に組み替える行為がテラフォーミングとされる。再読はそのテラフォーミングを引き起こす。

rashitaネットワークという縦糸にテラフォーミングという横糸を絡ませながら「本を読むとはどういうことか」が読み解かれ、その思索が紡がれていきます。前著と合わせて読むのがオススメです。

rashita積読とこの再読を掛け合わせて論じられそうですので、機会があれば書いてみましょう。