『「学び」がわからなくなったときに読む本』
>千葉雅也(哲学者・作家) 矢野利裕(批評家・DJ・中高教諭)
>古賀及子(エッセイスト) 井本陽久(いもいも教室主宰・数学教師)
>甲斐利恵子(国語教師) 平倉 圭(芸術学者) 尾久守侑(精神科医・詩人)
>現代の「学び手」たちと交わした対話と思考の全記録。
>「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)にみられるような
>「学び」という言葉が積極的に取り入れられています。
>本書は「学び」という言葉への疑わしさの感覚を出発点に
>本来の「学び」を自らの手に取り戻すためにどのような取り組みが有効なのか、
>そのことを知るために、学びの現場にいる人たちに話を聞きにいった、その対話の記録です。
>受験の渦中にあり競争原理に基づく勉強に没入する家族、
>暗記偏重の「勉強」から距離を置き、子どもを自由にさせたいと願う親、
>さらには、子ども時代に「勉強」とうまく出会うことができずに
>いまも苦手意識から逃れられない大人たちすべてへ、本書は開かれています。
>第3章 家庭の学びは「観察」から────古賀及子
>第4章 世界が変わって見える授業を────井本陽久
>第5章 「言葉」が生まれる教室────甲斐利恵子
>第6章 からだが作り変えられる学び────平倉圭
>第7章 子どもの心からアプローチする────尾久守侑
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まず「はじめに」。大人が子どもにいう「勉強しなさい」と、自分で使う「学びが必要だ」のような言い方にある断絶を起点に、現在の子どもたちが置かれている勉強環境の分析が語られる。たしかに「勉強」と「学び」には(辞書的ではなく)ニュアンス的な違いがある。前者は強制的、後者は自発的な印象。しかし、大人が言う「学びがある」は、教訓が得られたくらいの話でしかなく、深いレベルでの変容を伴う経験ではない。おそらくそうした変容は、「自己」の外側にあるがゆえに忌避されているのだろう。自分の内側に留まれるだけの「学び」だけが大事にされる。
第一章「何のために勉強するのか──千葉雅也」。鳥羽さんと千葉さんが初対面だった、というのがまず驚き。でもって、アテンション・エコノミーのまっただ中において時間をかけて勉強することが抵抗になる、という点はまさにその通りだと思う。たとえば一冊の本を一年かけて読むなんて、最高の贅沢だ。
第二章「リズムに共振する学校──矢野利裕」。この章も濃い。二点だけ。一つは踏み込むことに価値を置くからこそ立場の非対称性に注意を向けるという点。非対称だから踏み込まないというただセーフティーなだけの姿勢とは大きく異なる。危ういことを承知の上で、だからこそバランスを意識する。
もう一つは、鳥羽さんが経営にはさまざまな誇張があって、それは「嘘」と言えるんだけども、だからこそそれが人間臭いと思えると述べている点。これはたしかにその通りで、最近僕は「マネジメント」について考えているわけだけども、この人間臭さを忘れてはいけないと感じる。
第三章「家庭の学びは「観察」から──古賀及子」。どのページも面白い。そうそう、自分もそう考えたよなと読んでいたら註に自分の名前が出てきてびっくりした。
で、本章の中心になっている「観察」。感想ではなく、観察。観察がメタな視点を育てていく、というのはたしかにその通り。僕が言う「ロギング仕事術」も自分の仕事を観察する術だと位置づけられそう。鳥羽さんの「観察は他人を利用せずに済む」はまさしくと唸りました。
第四章「世界が変わって見える授業を──井本陽久」。井本さんの「できる」を評価すればるすほど、自分のやり方でやるという試行錯誤がなくなっていくという指摘、まさにという感じ。ビジネス書・ノウハウ書でも起きていること。自分の方法をつくることも、自分が変化することも起きない。
井本"「正解」を出すためには自分を消さなきゃいけない。でも、本当に大事なのは考えるプロセスです"
第五章「「言葉」が生まれる教室──甲斐利恵子」。しんしんと内容がしみ込んでくる章。「根底には」という言葉を必ず使うことを条件にする話や、いったん「〜〜とは、○○ではない」と言い換えてみることで思考の(視点の)柔軟さを取り戻す話など、環境づくりの妙が感じられる話題が多い。
第六章「からだが作り変えられる学び──平倉圭」。ことばとからだについての章。まず冒頭で語られる「すべては予算の問題なんだ」という実際的な話が印象的。理念だけでは片づかない問題がある。
平倉さんの「人間は言葉だけで考えるわけではありません。造形そのもののなかで働く非言語的な思考があります」という言葉は、たとえば紙の本と電子書籍の違いを考える上でも参照できそう。
第七章「子どもの心からアプローチする──尾久守侑」。子どものこころとどう付き合うかという話だが、翻ってそれは教師や医師や親が自身のこころをどう扱っているのかという話につながっていく。
これは尾久さんの"結局、心の問題を解決するために大事なことは「かかわり」だけだといってもいい"という発言を踏まえれば必然でもある。こころはぽつんと独立してあるわけではなく、こころとこころの関係としてあるのだから。間こころ性とでも言えるだろうか。
それはそれとして、尾久さんの"芯がないなりに、複数の軸を持っている"という表現はとても好きです。僕もけっこうカメレオン的なところがあるので、共感できます。