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『「学び」がわからなくなったときに読む本』
出版社 :あさま社(2024/10/19) ISBN:4910827048
>「学び」という言葉には
>どこか胡散臭さがあるーー
>
>鳥羽和久が 7人の学び手に話を聞いた。
>千葉雅也(哲学者・作家) 矢野利裕(批評家・DJ・中高教諭) 
>古賀及子(エッセイスト) 井本陽久(いもいも教室主宰・数学教師)
>甲斐利恵子(国語教師) 平倉 圭(芸術学者) 尾久守侑(精神科医・詩人)
>
>『君は君の人生の主役になれ』
>『おやときどきこども』で
>親子のリアルを描き出してきた著者による
>現代の「学び手」たちと交わした対話と思考の全記録。
>
>いま、子どもたちの教育現場では、
>暗記偏重の「勉強」が敬遠され、
>「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)にみられるような
>「学び」という言葉が積極的に取り入れられています。
>
>しかし、現代社会で使われる「学び」を
>大人たちはどこまで理解し、実践しているのか。
>
>本書は「学び」という言葉への疑わしさの感覚を出発点に
>本来の「学び」を自らの手に取り戻すためにどのような取り組みが有効なのか、
>そのことを知るために、学びの現場にいる人たちに話を聞きにいった、その対話の記録です。
>
>受験の渦中にあり競争原理に基づく勉強に没入する家族、
>暗記偏重の「勉強」から距離を置き、子どもを自由にさせたいと願う親、
>さらには、子ども時代に「勉強」とうまく出会うことができずに
>いまも苦手意識から逃れられない大人たちすべてへ、本書は開かれています。
>
>目次
>まえがき────鳥羽和久(書き下ろし)
>
>第1章 何のために勉強するのか────千葉雅也
>・勉強なんてくだらない?
>・自分専用のAIエンジンをつくる
>・あらゆる情報がミックスされる現代
>・「勉強するとキモくなる」のリアル
>・メタ視点を学ぶ「塾」という環境
>・濃いコミュニケーションは目障りなだけなのか
>・「自由」を警戒する子どもたち
>・晩餐のような勉強を
>
>第2章 リズムに共振する学校────矢野利裕
>・異色の経歴──カルチャー批評から高校教師へ
>・身体的交流こそ学校の本懐
>・他者とのぶつかりを避ける子どもたち
>・監視カメラが子どもを犯人予備軍にする
>・子どもは「腐った言葉」を嗅ぎ分ける
>・社会性と非社会性の間で
>・生徒と共振する──学校のリズム
>・先生の言葉には嘘が混じっている
>・社会構造をひっくり返す「ストリートの学び」
>・「やりたいことがない」への処方箋
>
>第3章 家庭の学びは「観察」から────古賀及子
>・家庭こそが学びの第一の場
>・日記エッセイの悩ましさ
>・感想禁止──感想文より「観察文」を
>・「お母さんらしさ」をトレースする
>・「観察」は裏切らない
>・偏差値、大好きなんです
>・大人の社会は学校の後遺症でできている
>・日記のトレーニングでメタ視点を身につける
>
>第4章 世界が変わって見える授業を────井本陽久
>・「正解」を求める勉強には意味がない
>・「できる・できない」の学びには自分がいない
>・「プロセス」にこそその子らしさがにじむ
>・「将来への備え」という現代病
>・なぜ森は究極の学び場なのか
>・将来の心配をする子ども
>・子どものコンプレックスに踏みこむ
>・先生は「世間知らず」であることが大事
>・抽象思考だけではぷるっとできない
>
>第5章 「言葉」が生まれる教室────甲斐利恵子
>・本当の言葉が生まれる教室
>・公立校では自由に授業ができるか
>・使うテキストは毎年変わる
>・言葉を「血肉化する」授業
>・勉強が始まる瞬間の「沈黙」
>・「好きなことだけやらせたい」への違和感
>・言葉の持つ暴力性と可能性
>・親が子どもにできること
>・子どもは「感謝しない生きもの」だから尊い
>・生徒に慕われているうちは二流
>
>第6章 からだが作り変えられる学び────平倉圭
>・ニュージーランド公教育の現場から
>・なぜ入学式で「カパ・ハカ」を踊るのか
>・染み付いてしまったからだのこわばりについて
>・言葉が息を吹き返す
>・抑圧された環境から「爆発したからだ」
>・巻き込み、巻き込まれる大人と子ども
>・親も子も言葉の魔術に巻き込まれる
>・「子どもを見る」とは理解し尽くすことではない
>・人の固有性と出会う教室
>
>第7章 子どもの心からアプローチする────尾久守侑
>・子どもの「過剰適応」とは何か?
>・「自分の道を行け」が子どもを足踏みさせる
>・思春期の延長としての「推し文化」
>・心の問題は自己治療がすべて
>・思春期に獲得する自分の言葉
>・プロとしての経験知が子どもを救う
>・「自由と規範」の間で揺らぐ
>
>おわりに────鳥羽和久(書き下ろし)
出版社さまよりご恵投いただく

まず「はじめに」。大人が子どもにいう「勉強しなさい」と、自分で使う「学びが必要だ」のような言い方にある断絶を起点に、現在の子どもたちが置かれている勉強環境の分析が語られる。たしかに「勉強」と「学び」には(辞書的ではなく)ニュアンス的な違いがある。前者は強制的、後者は自発的な印象。しかし、大人が言う「学びがある」は、教訓が得られたくらいの話でしかなく、深いレベルでの変容を伴う経験ではない。おそらくそうした変容は、「自己」の外側にあるがゆえに忌避されているのだろう。自分の内側に留まれるだけの「学び」だけが大事にされる。

第一章「何のために勉強するのか──千葉雅也」。鳥羽さんと千葉さんが初対面だった、というのがまず驚き。でもって、アテンション・エコノミーのまっただ中において時間をかけて勉強することが抵抗になる、という点はまさにその通りだと思う。たとえば一冊の本を一年かけて読むなんて、最高の贅沢だ。

第二章「リズムに共振する学校──矢野利裕」。この章も濃い。二点だけ。一つは踏み込むことに価値を置くからこそ立場の非対称性に注意を向けるという点。非対称だから踏み込まないというただセーフティーなだけの姿勢とは大きく異なる。危ういことを承知の上で、だからこそバランスを意識する。

もう一つは、鳥羽さんが経営にはさまざまな誇張があって、それは「嘘」と言えるんだけども、だからこそそれが人間臭いと思えると述べている点。これはたしかにその通りで、最近僕は「マネジメント」について考えているわけだけども、この人間臭さを忘れてはいけないと感じる。

第三章「家庭の学びは「観察」から──古賀及子」。どのページも面白い。そうそう、自分もそう考えたよなと読んでいたら註に自分の名前が出てきてびっくりした。

で、本章の中心になっている「観察」。感想ではなく、観察。観察がメタな視点を育てていく、というのはたしかにその通り。僕が言う「ロギング仕事術」も自分の仕事を観察する術だと位置づけられそう。鳥羽さんの「観察は他人を利用せずに済む」はまさしくと唸りました。

第四章「世界が変わって見える授業を──井本陽久」。井本さんの「できる」を評価すればるすほど、自分のやり方でやるという試行錯誤がなくなっていくという指摘、まさにという感じ。ビジネス書・ノウハウ書でも起きていること。自分の方法をつくることも、自分が変化することも起きない。

井本"「正解」を出すためには自分を消さなきゃいけない。でも、本当に大事なのは考えるプロセスです"

第五章「「言葉」が生まれる教室──甲斐利恵子」。しんしんと内容がしみ込んでくる章。「根底には」という言葉を必ず使うことを条件にする話や、いったん「〜〜とは、○○ではない」と言い換えてみることで思考の(視点の)柔軟さを取り戻す話など、環境づくりの妙が感じられる話題が多い。

第六章「からだが作り変えられる学び──平倉圭」。ことばとからだについての章。まず冒頭で語られる「すべては予算の問題なんだ」という実際的な話が印象的。理念だけでは片づかない問題がある。

平倉さんの「人間は言葉だけで考えるわけではありません。造形そのもののなかで働く非言語的な思考があります」という言葉は、たとえば紙の本と電子書籍の違いを考える上でも参照できそう。

第七章「子どもの心からアプローチする──尾久守侑」。子どものこころとどう付き合うかという話だが、翻ってそれは教師や医師や親が自身のこころをどう扱っているのかという話につながっていく。

これは尾久さんの"結局、心の問題を解決するために大事なことは「かかわり」だけだといってもいい"という発言を踏まえれば必然でもある。こころはぽつんと独立してあるわけではなく、こころとこころの関係としてあるのだから。間こころ性とでも言えるだろうか。

それはそれとして、尾久さんの"芯がないなりに、複数の軸を持っている"という表現はとても好きです。僕もけっこうカメレオン的なところがあるので、共感できます。