9912_アクセシブル(障害とは環境に属する)
以前、「バリアフリー住宅に詳しいと思って依頼したが、障害者の気持ちがわかっていない」と、言われたことがありました。私は反論をせずに、「その通りかもしれません」という意味で、少し頭を下げました。その時に感じた違和感のようなものが、今になって整理されてきたので、記事にします。
このお住まいは、私が初めて造らせていただいた、バリアフリー住宅です。阪神・淡路大震災が発生した、1995年1月に竣工しました。アクセシブル( 2017.09.16) その後、工事は始まり、無事に竣工を迎えることができましたが、
住まいてさんから、私が感じ取れていないと言われた「障害者の気持ち」。
「障害者の気持ち」と「健常者の気持ち」に、どのような違いがあるのか。
私は「違いなどない」と考えていました。今も、その考えは変わりません。
もしかすると、私のこのスタンスが、気に障ってしまったようでした。
そもそも、「わたし」は「ひと」の気持ちを、理解できるのでしょうか。
例えば、家では家族に対して、仕事では住まいてさんや職人に対して、
できるだけ、それぞれのひとの気持ちを、汲み取ろうとはしています。
ですが、どの程度、私が理解できているのか、私にはわからないのです。
誰もが、平穏で快適な暮らしを、ささやかに願うのと同時に、
ひとりひとり異なる、「苦悩」を抱えているのではないのでしょうか。
「苦悩」は、他のひとが身代わりになって、苦しむことはできないもの。
見守ることしかできないもの。たとえ、できたとしても、そうすべきでないもの。
そもそも、「障害者」と「健常者」とを分かつもの、とは何でしょうか。
以前、バリアフリー情報誌の編集長から、こんな話を聞いたことがありました。
>タバコに吸うときには、「マッチ」よりも「ライター」が便利だが、
>戦後、ライターが普及したのは、傷痍軍人が片手で点火できたから。
>体の機能を補うという点では、メガネも車いすも同じなのに、
>その人の周りの環境によって、決定されるものでしかない。
「障害」の定義は、「個人」にではなく、「環境」に属するものであり、
そして、絶対的なものでなく、可変的ものであると気づいたのでした。
ここでひとり、私のバリアフリーの原点である、Oさんをご紹介させてください。
Oさんのお住まいが、私が初めて造らせていただいた、バリアフリー住宅でした。
1995年に竣工してから、2017年で22年ほど経ちますが、
Oさんのお住まいには、度々お伺いしています。
先日お伺いしたときに、そこで私は、「大切な何か」に気づくことができました。