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「ひらかれた場」にひらいていくには
経緯
既にひらかれた場になっていても、その場がアクティブな状態にはなっていないことがある気がする
場がひらかれていることとは別に満たすべき条件がありそう


前提として「場がひらかれている」とは
辿るべき道筋が事前に決まっていない
どこに向かってどこに着地しても歓迎される
「否定されない」以上に「歓迎される」という空気が必要な気がする
参加者間に萎縮や従順さがない
裁判官的存在がいない
権限や知識・経験の有無などによる序列を感じないようにセッティングされている
自己開示が優しく促されている
といった感じか?


場がひらかれていたとしても、人々がひらいているとは限らない
安全であることはわかるが、モチベーションが湧かない、場に魅力を感じない、という状態か
受容されるだけでなく、化学反応が絶えず起きていかないとつまらない
(ただし化学反応が起きすぎると人によっては「速すぎて疲れる」ということになり得る)
活発であればあるほど良いタイプと、手に負えない速度で物事が流れていくことに耐えられないタイプとある
治療の場だとすれば、患者が理解されること、患者の環境が良くなっていくこと、が達成されていけばハッピー
それと同じように、何かが良くなっていく実感がもたらされる必要がある
つまるところ楽しい場である必要
何かしらの不一致がある場合
テンションが合わないとか
(私自身が昔経験したことがある)
(優しいし、話を聞いてもらえるが、それだけとか)
(否定される可能性がないのは良かったが、とてつもなくつまらなかった)
要はセレンディピティが生じない状態
誰とも以心伝心・意気投合を感じないとか
ネット上の文字だけのコミュニケーションだとしても、書いたものの背景にある気分や思いを感じ取れる間柄とそうでないのとがある
「馬が合う」という感覚の有無は、「そこに誰がいるか」に依存するものであって、場のセッティングだけではどうにもならない
非常に難しい話
場を作る側にできる解決策としては、洞察力や共感力に長けた人を地道にスカウトするとかしかないような…
相性の話なのであとはもう運次第か


「自由に考えを交わす場」に於ける障害として考えられるもの
①同席者に対する尊敬や憧憬で勝手に「一歩引く」こと
話から「降りる」と言い換えてもいい
尊敬や憧憬を抱かれている側からすれば、自分がいるせいで停滞するという非常に悲しい事態になる
→「尊敬・憧憬を得ようとしない」「尊敬・憧憬を表現しようとしない」という了解が必要か
誰についても人ひとり分として認識されること
なんびとたりとも特別扱いしない
敬意を持つことと「一歩引いて相手を持ち上げる」ということは違う
余計な謙遜はタブー、茶番めいた褒め合いも無し
②全てがひらかれている不安
「考える」ということは、パブリックとプライベートを行き来するもの
もう少し個人的に考えたいと思っているときに横から口を挟まれることへの拒否感
実際に口を挟まれなくとも、「挟まれるかもしれない」と想定すると足枷になり得る
一方で、「考えておいてから書く」をやり出すとその場の自由度が下がる
ゼロから考え始めていい場であったほうが良いだろう
→ひらかれた場に書き込むとしても、「今はただ見守ってて!」と表明できるといいかも?
準備が整ったら反応を受け付けるとしても、まだ準備段階であると言えると良さそう
ただし「反応を受け付けられる状態」は「考えを書き終えた状態、考え終えた状態」とイコールではない
「書き終えたから、はいどうぞ」ではなく、「人の意見を聞けるところまでは来たから、より発展させるためにそろそろ反応ほしい」という感じ
自分のコンプレックスが露呈する恐怖
「ひらかれた場」はそれを解消するための場でもあるだろうが、勇気が要ることは確か
自分の未熟さを知られるのが恥ずかしいということ
無知で無学であると看破されたら生きていけなくなる感覚
(私もそれが大変に恐ろしかったわけですが、最近はなんか開き直っている)(だって知らないものは知らないもん、今から知るんだもん、死ぬまでに知れればいいもん、みたいな)
仮にその場の話題に対する知識が足りていなくとも自分に何か専門や詳しい領域があれば「無知で無学な人間」ではないわけだが、そうとわかっていても恥の恐れは拭い難い
あるいは「深くはないけどいろいろなことを齧っていてあちこちに結びつけられる」も立派な能力
→知識やロジックではなく、「こう感じている」が出力されることが歓迎される場である必要
人を侮るタイプの人間を決して入れないというコントロールが必要な気もする
人を侮ることに繋がるような話題の出し方をしないとか
「こういう人ってこうだよね」系の話が危険、ダメゼッタイ
あとツッコミ系の反応は要らん 本当に要らん
「それわかる」ということを積極的かつ自然に表現できる空気であること
「わかる~!」って言い合うのが目的になると何か別の種類の場になるのであくまで自然に表現できること
「わかる~!」を目的にするわけではないが、「わかるなあ」と思ったらそう書き込む
別に「わかる」と書かなくてもいいが、そこに反応するということ
知識やロジックは、(メタ認知的な話題の場に於いては)何かしらの思いを解決する手段であって、それを知っている人がいれば話は進みやすいが、そういう人が偉いわけではない
というか、そういう人が偉いわけではない場を作るというのが「ひらかれた場をセッティングする」ということ
メタ認知の難しさから言えば、まず「私はこう感じているのです」を言えるだけで価値のあることだろうと思う
③自分の書き込みに対して感じる「所有」の感覚の問題
書き込みのスタンスが各々大きく異なる可能性がある
他に表現手段がある人にとってはブレストかもしれない
他に表現手段がない人にとっては表現の最終地点かもしれない
自分が思いついた切り口・フレーズが、「その場のもの」になることへの拒否感
真の意味で自分オリジナルの新しいものがそこに生まれるということはまずないが、とりあえず「今この場にこの切り口を持ち込んだのは僕なんですよ」「このことをこう言い表したのは私なんですよ」という気持ちはあり得る
あり得るというか、まず私にある
著作権が云々というほどの話ではないが(それを主張するなら自分個人の場に投稿すればいいので)、そういう問題ではなく、「これは私が出した話なんです!」という気持ちを多くの人が持っているような気がする
普通の会話でもそう
この感覚が無い人と有る人とが同じ感覚で書き込むのは難しい気がする
自分がその場に提供したことが誰かの何かに吸収されて、自分の手柄であるという情報が失われてしまうかもしれないと思うと、多分「自由にワイワイやる」は成り立たない
その気持ち自体を捨てることを要求してしまうと、「既に何かしらの基盤があって余裕で生きていける人」みたいな人しか残れないかも
つまりそういう人たちの「内輪」の場になる
→誰が書いたことなのか、尊重されたい人が尊重されることを保証される必要があるかも
同時に、「別に書き込みごとに尊重される必要ないよ、話題を提供できればいいよ」という人もそのスタンスでいられること
よって「必ず記名」でもなく「必ず無記名」でもなく、名前を書いておきたいときに書けるということ
名前が書かれた場合にはぞんざいにただの素材として扱わないという了解があること
話題として発展させるのは自由である必要があるが、「この場にこの話を出したのはこの人だ」が意識されること
それが要らないなら適当な匿名掲示板を探せばいいとも言えるし、そうでなくて構成員がわかる場を選択したということは、自分という「個」を尊重されたいという気持ちを持っているのはごく自然なことだろう


つまり…
否定されない!何でも言っていい!安全!が前提としてあり、
言ったら楽しいことが起こる!気持ちがわかる人がいる!が確保されていて、
自分が言ったことが自分のものとして尊重される!嬉しい!が保証されていること
が「ひらいていく」ために必要かもしれない

もっと縮めると
安全!楽しい!嬉しい!
という環境


これなんですよね
本当に難しい
構成員の人数の絶対数が条件にならざるを得ない感じがする
構成員の人数自体は多くてもいいのだが、
> 早い話、オタク気質でない人がいると、そいつがかき乱して成立しなくなる or そいつだけ潰れる
これがあるので、これを防ぐためには大人数にできないということになる
偉人たちが言うサロン的な集まりも、多くても十人くらいの間でずっと続いているイメージがある
(今ネット上にあるサロンとはかなり性質が違うだろうと思う)(まずサロンを作ろうとして作るのではないし、募集するのでもない)
一方で、「いつものメンバー」という状態を「内輪」化させないためには種々の暗黙の了解が必要な気もする
「ひらきつづけたい」と全員が思い続けていられればそれで解決することではあるが
得たいのは共感や同意ではなく発展とセレンディピティであるということ
「あいつってこのタイプだよね」「こういうやつってこうだよね」を絶対排除
仲間が増えたらいいよねという気持ちを持ち続ける


水平線
> nora「場がひらかれている」ということと、「ひらかれることで期待する結果が達成される(≒活発である、流速がはやい、人々がひらいている)」ということはまた別の話なのかもしれない。「場がひらかれている」は現状その時点で極めて貴重だが、それは前提に過ぎないか。
> nora必ずしも流れが速いのが良いのではないけど「色んな人が絶えずあちこちで色々なことを開示して語っている」のイメージを端的に言おうとして「流速」と表現した。
> nora「水さえ引けば豊かな生態系が生まれるであろう空間」があることと、実際にそこに水が流れていくことは別の話で、水が流れ出す瞬間にはそれが豊かな世界に繋がっていくかわからないし、その上「自分や他の人々が流れていって到達することが豊かな生態系の要件」となるとなかなか難しいということか。