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▼メタファー使いの生きにくさ
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メタファーを使いようがない領域について考えるのが非常に苦手だ。というかもはや「無理」と言ってもいいレベルかもしれない。
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メタファーに頼ると、「これはこの場合こういうイメージを示すものとしてここにあって」の説明からスタートしてメタファーの妥当性的なものを保証してくれそうなイメージや解説をベタベタくっつけるからアウトラインもいちいちキメラ状になるし、キメラを許容してくれる領域でないと生きていけない。
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文系的か理系的かで言えば明らかに文系的だが、文系だろうが理系だろうが学術の領域はメタファー依存で生きにくく、自分が理解できる物事の総量が少ないわけでも範囲が狭いわけでもない気がするのに、学術領域に立ち入ると非常に困難を感じる。自分の頭が悪くて悲しい、という気持ちになる。
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しかし実践的に生きるには思考形態が抽象的過ぎて、それはそれで困難。
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「実践的」の定義が曖昧だが、要は人と話をするにも物事を飲み込むにも変換作業が必要になって、そこでの労力のロスが大きくて疲れてしまう。
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前は「扱える抽象度を上げ続けることが知的になっていくということ」だと思っていたけれど、果たして頑張ればそうなっていくのだろうかと考えたとき、そもそも私より前にいるっぽい人が私が今いる道を通過していなくて、これは一本道の向こうと手前の差ではないのではないか…という気がしてきた。
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「その話わかる」と感じたとき、「あなたが指し示している事象について私も理解している(or持論を持っている)」と「あなたのその構築の仕方に自分との共通点を感じる」とがあり、前者は比較的得やすくそれだけでも意思疎通の具合として貴重なレベルだけど、後者はちょっと別格の有り難さがある。
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前を向いて頑張って歩いていても、同じ道を歩いているっぽい人にはなかなか会わないのである。
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こういうことも起きる。→
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自分にはめっちゃウケてる(必ずしも笑いの意味ではない)誰かのツイートが、その人にはたくさんフォロワーがいるのに結局いいねが3〜5くらいに留まっているのを見ると、この人はここが面白いんじゃん!ねえ!違うの!?とひとりで心のなか大騒ぎということになったりする。
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私も「ちなみに」が無限増殖しがちなのですが、これはメタファー思考が有機的であるがゆえに常に全方位に枝を伸ばそうとする力学が働いているみたいなことなのだろうか、と思いました。
> ちなみに、僕の思考の8割くらいは「ちなみに」できている。
> メタファー中心の思考とは、「っぽいこと」をいつも探究しているというか、それがファイル形式なOSのことかもしれない。
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ちなみにこの性質には「粘菌」をイメージします。
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そういえばメタファー中心というのにも、人工物のメタファーが多いか自然物のメタファーが多いかみたいな差もありそう。そしてそういえば私は「そういえば」が多い(無限増殖中)。
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自分が見出したメタファーについて、「なぜ私はこのメタファーとここで巡り合ったか」を延々分析することになる、というのは自分にとってはごくごく当たり前の自然な脳の動きだが、多分それは高確率で人と共有できるような感覚ではないんだろう。