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コンテナ物語

コンテナの歴史では予想外のことが多かった

1 章 最初の航海
1956 年に初めてのコンテナの運用
コンテナが出現するまでは、モノの輸送のコストは高かった
特に港におけるコストが大きかった
昔は貨物の積み下ろしで生計を立てる人が大勢居たが、クレーンでの積み下ろしに取って代わられた
輸送コストの低下は消費者にとっては益のあること
第二次世界大戦のあとの復興需要、国際競争の少なさ、という特殊条件下で、アメリカや日本の労働者は良い待遇を得られていた
が、それが終わった一因はコンテナ
どこからでもモノを調達できるようになる → 経営者が交渉上優位に
コンテナは税関の検査や公安にとっては頭痛の種
不正な品物を運び込む格好の手段
コンテナの価値を証明したのはベトナム戦争
ジャスト・イン・タイム方式を採用できるのも、コンテナとコンピュータのおかげ
本書のテーマは以下の研究の重なり合うところ
輸送技術の変化

2 章 埠頭
1950 年代前半 (コンテナ輸送がぼんやりしたアイデアのころ)、世界の大都市の殆どはを抱えていた
多くの労働者が輸送産業で働いていた
製造業は港のそばに陣取っていた
日雇い労働で雇用が不規則
労働組合政府からの圧力や、ストライキにより、労働環境は改善
労使の敵対関係による問題
積み荷の窃盗
労使間の信頼関係の欠如
箱の発想は 19 世紀後半からあった (鉄道輸送など)
初期のコンテナ導入の試みは成功とは言えないもの

3 章 トラック野郎
海運業は保護やカルテルがあり、改革の必要性を感じていなかった

4 章 システム
1956 年、C2 型貨物船を改造してアイデアル X 号の 4 倍のコンテナ積載能力
1954 年当時、マトソン海運という船会社もコンテナ活用を考えていた
1960 年代には海運業界はコンテナの話題で持ち切りに
とはいえ実際に手を出す会社は少なかったし、成功している会社もほぼなかった

5 章 ニューヨーク対ニュージャージー
ニューヨーク港は対岸のニュージャージー港に対して不利な点が多かったが、規制のためにやっていけていた
港湾局による港の近代化計画
ニューヨーク市は拒否 (港湾局ではなく市によって実現する、という思想)
1955 年、ニュージャージー州ポートエリザベスの開発計画発表
コンテナありきの港
ニューヨーク市は独自にニューヨーク港の改修を進めたが、コンテナへの対応はせず
コンテナ化の波もあり、徐々に取扱量が減少
1960 年代なかばには、船会社がニューヨーク市からニュージャージー側へ
輸送費の減少などで工業も移転

6 章 労働組合
国際港湾労働者連盟 (ILA) はコンテナによる労働力需要の減少を警戒
国際港湾倉庫労働者組合 (ILWU) は ILA とは対照的な方法で機械化に取り組んだ
東海岸では労使の関係がこじれていた
nobuoka ILA が東海岸で、ILWU が西海岸かな?
機械化自動化によりある種の仕事が消えるときの労働者への対応策
仕事を奪うようなイノベーションを産業界が導入する場合、労働者を人間的に扱うという原則

7 章 規格
コンテナの規格化の必要性
米海事管理局による推進
それぞれの会社でコンテナのサイズには理由があった
規格競争が発生

8 章 飛躍

9 章 ベトナム
1965 年の冬にアメリカ政府はベトナムへの緊急増派を開始
混乱が発生 : 貨物が多すぎたことと、混載船だったこと
マルコム・マクリーンが補給の指揮をとる海軍大将に直訴
ベトナムからの帰りに日本から西海岸への航路

10 章 港湾
西海岸の港は 1950 年代を通して停滞
コンテナリゼーションで再起を図った
いくつも港が変化を遂げた
劇的なのはオークランド
1960 年代、全然な地方経済を支えるのは製造業という考え
1966 年、シアトルの港湾当局は、物流を次のように位置づけ
生産と消費を結びつけるだけのものではない
独立した産業として、生産と消費のあり方を決める
流れに取り残された港
東海岸でのコンテナリゼーションは進まなかった
理由は労働組合予算
コンテナ輸送の最初の 10 年はアメリカだけの出来事
その後は世界に広がる中、多くの港がそのスピードに翻弄された
教訓 : コンテナリゼーションを成功させるには計画的な大きな改革が必要
コンテナ化は荷役コストを下げるが洋上のコストは変わらない → 短距離のほうが効果的
専門家は、長距離航路ではさほどコスト削減されないとした
1966 年に北大西洋でコンテナ輸送が始まる → アジア各国は注目
長距離航路でもコンテナリゼーションの効果が見えた

11 章 浮沈
1969 年、シーランドが身売り
身売り先は全米最大のタバコ会社 R・J・レイノルズ・インダストリーズ
1966 年にコンテナ輸送が誕生したばかり
たった 3 年で世界は変化
世界にはコンテナ荷役のための最新設備を持つ港が多く誕生
シーランドは世界最大のコンテナ海運会社
競争も激しくなっており、シーランドは多く債務を抱えていた
マルコム・マクリーンはこの前の年から革新的なコンテナ船 SL7 の設計をしていた
第一世代と第2世代のコンテナ船
アメリカの船会社の奥の手、コングロマリット
コンテナ・ブームの最初の舞台が北大西洋で、第二幕が太平洋
供給過剰 → 値下げ競争
競争の制限へ
TRIO などのコンソーシアムが結成された
1973 年頃には海運業界は好調
原油価格高騰などもあったが、運賃を上げて対応
1974 年後半にようやく海運業界に打撃
石油ショックによる世界的な不況
1960 年代後半に設計された船は、スエズ運河を通れない前提で設計 → 高速船、燃料食い → 石油高騰で不利、という側面もあった
特に SL7 が大打撃
レイノルズSL7 を定期航路から外し、その後、海運業から足を洗う

12 章 巨大化
マルコム・マクリーン1977 年の 2 月に R・J・レイノルズの取締役会を去り、10 月にはユナイテッドステーツ海運を買う
コンテナ輸送規模の経済がモノを言う産業の代表格だった
規模の追求 → 船腹数だけでなく船自体の大型化
も巨大化
かつての港は立地が重要 (内陸部と経済的に密に結びつく) だったが、立地ではなく大きさが重要に
競争の激化 → 投資の拡大
港に投資をしても、船会社は港を乗り換えがち
港湾施設投資の多くが無駄に
政府や自治体にとっては重すぎる負担
1981 年に 21 の港を民間企業に売り渡す
他国も追従
結果、ほとんどの港 (20 世紀終盤にはコンテナ取扱港の半分近く) が民間事業体の手で運営されるように
1977 年、南アフリカ ~ ヨーロッパ航路でコンテナ輸送サービスが始まる
在来船しか就航していなかった最後のルート
船会社は新しいルートを考え始めた : 世界一周航路
遅延が問題になりやすい点を考慮し、シーランドは断念
両者とも 1982 年に船を発注

13 章 荷主
コンテナ革命の影響
最初に影響を受けたのは海運業界 → 他の産業に波及効果をもたらすほどではなかった
製造業卸売業など、運ぶ品がある産業にとってコンテナリゼーションが意味を持つようになって、大きな影響
当初はさほど下がらなかったが、投資が増えるにつれて固定費を分散させるために大量の貨物を運ぶように → 景気低迷で価格競争も → 運賃低下
国際貨物運賃は 1968 年頃から下がり始め、1973 年頃まで下落基調
原油価格高騰で、1977 年頃までは上昇
1970 年代後半に変化
荷主の団結など

14 章 ジャストインタイム
多国籍なサプライチェーンはコンテナがもたらした輸送革命の産物
当初は日本国内でしか知られていなかった
1984 年にトヨタゼネラルモーターズと合弁の現地生産を始めて、アメリカでも注目されるように
輸送方式を変更する必要性
ロジスティクスが経営用語に
1990 年代後半に先進国で物価が下がったのは安価な輸入品によるところが大きい
30 年におよぶインフレ基調に終止符を打つ一因に
投資リスク
パナマ運河の拡張工事などの巨額投資が回収できない可能性

15 章 付加価値
貨物取扱量の拡大から、付加価値の創出へ
港湾周辺の土地を希少資源とし、地域経済に最大限の利益をもたらすものに貸し出すように

解説
第二次世界大戦前から、海上輸送は船を貸し切って利用するのが一般的だった
大量ロットから小ロットへの対応がコンテナ化
中国の改革開放
BRICs の台頭、南米やアフリカへの期待
日本の総合商社もこの分野に進出している
センサー技術も含めた IT による自動化が顕著に
国土交通省AI 港湾というコンセプトを検討

天才読書』 での紹介
コンテナは 20 世紀最大の発明と言われる
輸送単位の共通化
物流コストの削減
輸送能力と配送スピードの向上