「感じられた意味」が、認知に必要な、特定の機能を果たしていることについて
「感じられた意味」が、認知に必要な、特定の機能を果たしていることについて
1.問題解決
デューイの「思い付き(suggestions)」の概念
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なんらかの問題を解こうと考えているとき、ふと「思いつく」ことがある(みんな体験したことあるよね?)
この「思いつき」には「感じられた意味」が関与してそう
例えば中学ぐらいの数学のテストで、展開して整理したら解ける問題と、そうでない問題がある。後者は「どうやって解くんだろう」としばらく悩んで「あ、前に解いた問題でこんな感じのことをしたな」みたいにやったりする
2.再現と分節化
「忘れたことを、思い出す」プロセスでも「感じられた意味」が使われている
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「あー、何か言おうとしたんだけどなんだっけな」
「言おうとしたこと」が存在するという感覚がある
しかしそれはまだシンボル化されてない
「解決策を、思いつく」と同じ構図
分節化(ARTICULATING)
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英語のarticulateは日本語に訳すと歪むと思う。「この製品は部品に分解することができる」という状況でも「彼はその件に関して流暢かつ一貫して話すことができる」という状況でも使う単語
日本語で「わける」と「わかる」に同じ漢字を使うのと似た構図
ここでいう
分節は、文脈として言語学者
ソシュールの「世界は一部の差異を無視し、一部の差異に注目することで分節されており、その分節の仕方は民族語によって異なる」を背景にしてる
具体例: 日本語だと孫は「孫」の1つだけど、中国語だと4通りある
孙子(sūnzi), 孙女(sūnnǚ), 外孙子(wàisūnzi), 外孙女(wàisūnnǚ)
(日本にも昔は内孫/外孫の区別があった)
英語: brother(兄弟)は日本語で分かれてるものが英語で分かれてない例
逆に日本語で分かれてないものが英語だと分かれてる例だとoxとbullがある
3.心理療法
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これは簡潔に核心をついた表現だと感じるけど「心理療法」のイメージがないとピンとこない?
例えば「心が辛いんです」というクライエントが来る
そこに主観的な「辛い気持ち」があるが、本人もそれがどのようなものでなぜ存在するのかを言葉にできてない
辛さの現在進行形の体験(Experiencing)が存在していて、まだシンボル化してない
この分節化を促すのが心理療法
それによって主観的な苦痛などが減ることが心理療法の分野では経験的に知られている
認知療法でも「感じたことを紙に書け」的なことをやるが、主観的なものを言葉にして自分の外に出すことで、それに対して「客観的に/第三者的に/
他人事のように/距離を置いて/
ディソシエイトして」接することができるようになるんだろうと思う