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「まとめる」と「まとまる」
川喜田二郎は時々「まとめる」と「まとまる」を違うものと表現している。
人間が頑張ってまとめようとするのではなく、データが勝手にまとまる、ということ。
これを聞いて「勝手にまとまる」経験のある人は「あー、あれね」となる。
経験のない人は「勝手にまとまる?そんなことある?」となる。p.53
自転車に乗ったことのない人に言葉で説明しても伝わらないのと似ている 自転車のたとえ

発想法p.53ではこう書いている
>「資料をまとめる」という、あいまいで大風呂敷な言葉に執着していたあいだは 、私の研究資料はさっぱり「まとまらない」という、はなはだ皮肉な結果に陥ったのだった。
続きの部分が抽象的で伝わりにくい
>要約分析と統合の両方法を関連的に全部行使したときに、はじめて「まとまる」のである。
「あいまいで大風呂敷な言葉」という強い表現を使ってる
要するに「まとめる」ということについて、みんなわかったような気になってて、自分はそれをできるような気になってるけど、「まとめる」って具体的に何をすることなのかあいまいだよね、と指摘してるわけだ
渾沌をして語らしめるp.331ではKJ法と「通常のまとめ思考」を対置してる
p.332〜334:
モザイクの世界
縫い目のない意味の生態系の世界
これは面白い話なんだけど説明はまたの機会に
ざっくりいうと
まとめ思考は判断時間を短くするので有益だが、それが使えない状況でまで使ってしまいがち
そうすると「うまくまとまったところ」がつぎはぎされた「モザイクの世界」になる
探検ネットは「縫い目のない」つなぎあわせをする