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ジークムント・フロイト


オーストリアの精神科医で、精神分析の創始者。
5月6日、モラビアフライベルク(現在のチェコプリボール)に生まれる。父はユダヤ人で羊毛の商人。異母兄が2人いるが、8人兄弟の長子。4歳のときウィーンに移住するが、このころ経済的には困窮状況にあった。
1874年ウィーン大学に入学。最初はブレンターノの講義に出席し、その志向性の考え方に影響を受ける。入学後3年目になりブリュッケErnst Wilhelm von Brcke(1819―1892)教授のもとで神経解剖学の研究を試みる。経済的理由で学究生活を続けることができず、ブリュッケの勧めで1881年に医学の学位をとり、翌1882年マルタMartha Bernays(1861―1951)との婚約で経済的な安定を得るためウィーンの総合病院に勤める。
1885年、その間の延髄の伝導路に関する研究業績によりウィーン大学の私講師のポストを得、奨学金を得てパリに留学。シャルコーのもとでヒステリー催眠暗示による治療を見、大きな感銘を受けて1886年その著書を独訳する。ウィーンに帰りシャルコーのところで観察した治療法を報告するが受け入れられず、開業医となる。先輩の神経科医のブロイエルJosef Breuer(1842―1925)に刺激されて催眠による治療を始める。
1895年には、後年の心理学の背景となっている『心理学の草稿』が書き上げられる(この草稿は1950年になって初めて公刊された)。催眠治療中の患者の示唆により、催眠にかわる方法として自由連想法を使うようになり、治療技術としての精神分析を確立する。の分析的解釈を始めるようになり理論的にも整ってくる。
そのころ(1902年以降)からフロイトに関心を寄せる人たちがフロイトのもとに集まり(心理学水曜会と称する)、1910年国際精神分析協会が結成された。ユングを初代会長として選ぶが、アドラーユングリビドーの考え方の違いからフロイトと決別する。
ナチスの迫害を受けるが、1938年ルーズベルトムッソリーニなどの助力によってロンドンに亡命。翌1939年9月23日、上顎癌(じょうがくがん)で死亡した。
無意識心理学の時代
フロイトの研究業績は、大別して1920年の『快感原則の彼岸』を境にして前期と後期に分けられ、前期のものを深層心理学とよぶのに対して、後者は自我心理学とよばれている。
前期の考え方は1890年代のヒステリーの治療経験に基づくもので、抑圧の概念を中心にして構想されたものである。こうした無意識の考え方をもっともよく示しているものは1900年の『夢判断』、1901年の『日常生活の精神病理学』、1905年の『性理論のための三篇』『機知――その無意識との関係』などである。
1915年になると衝動抑圧無意識などの概念を理論的にまとめようとする諸論文が公刊されるが、1910年代には、レオナルド・ダ・ビンチの幼児記憶についての論考をはじめ、シュレーバーDaniel Paul Schreber(1842―1911)の病歴の回想録の分析的論考を試み、同性愛をもとにして精神病の分析的解釈を試みるようになる。
こうした関心は1914年の『ナルシシズム入門』に展開されるが、この考え方は、後期に入り、1923年の『自我とエス』の論文が書かれるまで放置されたままになったものである。前期と後期の考え方の違いは、場所論衝動論に典型的に示されている。前期の場所論では、という装置は意識前意識無意識に分けられるが、この根底をなしている考え方は、意識をもとにして人間を理解しようとする意識心理学の立場を捨てて、意識は無意識から理解されるべきものであることを主張しようとするものである。これは同時代の哲学者フッサール現象学と軌を一にするものである。
自我心理学の時代
後期の場所論では、エスイド)、自我超自我の三つの審級(場所)から考えられる。エスはドイツ語の非人称の代名詞であるが、およそのところ前期の無意識に対応するものである。しいていえば自我意識に、超自我前意識に対応させて考えられないこともないが、その意義はまったく異なり、ナルシシズムを考慮に入れたものである。
衝動論についていえば、前期のものは自己保存の自我衝動性衝動から構想されている。しかし、この衝動論は衝動の二元論を意味するものではなく、性衝動を導き出すために自己保存の衝動が仮定されたようなものである。この意味で汎性欲説といわれることがある。
ナルシシズムの論考では、性衝動リビドー)は対象リビドーと自我リビドーとして考えられるようになるが、後期の衝動論では、自己保存の自我衝動と性衝動を包括して生の衝動エロス)とよび、これに対して死の衝動タナトス)が仮定されるようになる。死の衝動という考え方は親しみにくい語感をもつために、精神分析家にも容易に受け入れられないものであったが、フロイトにいわせれば、これ以外には考えようのないものであった。
用語の違いだけからいえば前期と後期ではかなりの相違があるように考えられるかもしれないが、フロイトの考え方そのものからいえば一貫した分析的態度が認められる。その点を明らかにすることが今後のフロイト研究の課題でもある。